問うこと
マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』を読む。
本書は,1935年夏学期で,フランクフルト大学の『形而上学入門』と題する講義をした,
「この講義はそのテクスト周到な準備をしたうえで行われたのであるが,そのテクストを印刷に付した」
ものである。大学の講義の草稿がもとなのである。「序」で,著者は,
「この講義の表題の中で『形而上学』という名称がどんな意味で,またどんな理由で言われているのかということを正しく考えるためには,読者は何よりもまず,この講義の進行に従って,自分でともに考えながら,最後までついてこなければならない。」
と書く。いやはや,ついていくだけでも大変である。
ハイデッガーと言えば,『存在と時間』である。しかし,あの著書は,未完である。従って,生前出版された講義録,中でも,本署と『ニーチェ』講義が重要と,解説の木田元氏は言う。特に本書は,ナチスとの関わりが批判されるハイデッガーがそれに応えているシュピーゲル誌との対談『シュピーゲル対談』が併録されていることも,
「共にナチス加担についてのハイデッガー自身の後年の思いをうかがわせるという意味で,共通するところがある」
と,述べている。そして,本書を,
「存在概念を正面切って採りあげて論じている上,ソクラテス以前の思想家たちまで視野に収め,プラトン,アリストテレス以降の『西洋哲学』を相対化して見る作業を具体的に遂行してみせている点で,いわば彼の思索の根幹に属するもの」
と評している。僕は,本書の特徴は,「問い」にある,と思う。まず,冒頭,
「なぜ一体,存在者があるのか,そして,むしろ無があるのではないのか?」
という有名な問いから始められている。そして,さらに,
「この問いを問うこと,すなわちこの問いを成立させ,これを提出し,どうしてもこの問いを問わざるをえないような状態になるということを意味するのだとすれば,多くの人々は全くこの問いにつきあたらない。」
と言い切る。こう問えるには,問わざるを得ないような状態に居るということを意味する。
それにしても,ハイデッガーの問いは独特である。
「哲学するとは異‐常なことを問うことである。けれども…これを問うことは結局,自分自身へと跳ね返ってくることになるのだから,問われているものが異‐常であるだけでなく,問うことそのことが異‐常なのである」
なぜなら,
「哲学するとは異‐常なことを異‐常に問うことであるということができる。」
そこから,ギリシャ語,
Physis
を廻って,徹底的に問い詰められていく。そして,
「ギリシャ語では『何かを超える』,『超』のことをmetaという。存在者そのものを哲学的に問うことは,meta ta physikaである。つまりそれは存在者を超えて問う,形而上学(メタフュジク)である。(中略)
われわれがさきに等級から言って第一の問いだと言った,『なぜ一体,存在者があるのか,そして,むしろ無があるのではないのか?』という問いは,したがって形而上学的な根本の問いである。」
とつながっていく。
本書の途中で,ハイデッガーは,
「講義のとき私はときどき質問を受けるが,そのたびにいつも大抵の人は逆の方向で講義を聴いており。いつまでも個々の事柄に囚われているということがわかる。」
と書いている。そして,哲学は他の個別科学とは異なり「対象を与えられていないのみならず,哲学は全く対象を持たないのである。」
として,
「哲学とは,いつも新たに存在を(それに帰属しているそれの開明性において)成就しなければならないような一つの出来事である。この出来事が生起することにおいてのみ,哲学的真理は自己を開示する。だからここでは,この出来事の中の一歩一歩につき従って,それをたどり,それをともに成し遂げることが決定的に重要なのである。」
と書いている。その伝でいくと,「逆の方向」なのかもしれないが,
「『形而上学入門』とは,したがって根本の問いを問うことへと導き入れることである。だがしかし,問うということ,いわんや根本の問いを問うということともなれば,石や水のように簡単には現れない。(中略)だから根本の問いを問うことへと導き入れるということは,…この導きが初めて問うということを喚び起こし,作り出さねばならない。この導きは問いつつ先行すること,先んじて‐問うことである。」
「問うとは知ることを‐志すことである」
という言葉に従うなら,ハイデッガーの問いをたどってみることは,その問いに導き入れられることなのではあるまいか。
最初の問いは,
「存在はどうなっているのか?」
という先行する問いを問うことになる。それは,
存在(ザイン),
あるいは,
ある(ザイン),
という語そのものを問い詰めていく,
言語の本質についての問いの真っ只中へ入っていく,
ことへと至る。そして,
「『ある(ザイン)』についてわれわれの理解を一つのはっきりした限界線へと向かわせ。この限界線からしてわれわれの理解が実現される。『存在(ザイン)』の意味の限定は,現在性と現存性,性率と存続,滞在と到‐来の圏内にとどまっている。(中略)『ある(ザイン)』という語は,限界線に統一があり,限界線がはっきり決められていて,この語はそこからその意味を得ているし,この限界線がこの語についてのわれわれの理解を導いている」
つまり,「一つの全く限界づけられた意味」を持ち,「特定の仕方で理解されている」と。だから,そこから,
「われわれの探求は,その本来の姿,すなわちわれわれの隠された歴史の由来についての熟慮という姿をはっきりとることになる」
その「ある(ザイン)」を言う言い方を,その歴史的背景の中で,
存在と生成,
存在と仮象,
存在と思考,
存在と当為,
探っていくことになる。それは,
「われわれが『存在』と言うとき,ほとんど何かに強制でもされているように,どうしても,存在と…と言わざるをえなくなる。この『と』とは,何かそれ以外のことをついでにつけ足し,つけ加えるということを意味するだけのものではなく,存在がそれから自己を区別しているそのそれを言い足すのである。つまり存在であって…ではないというふうに。だが同時にわれわれは,このような定式のようになっている標題において,存在の他者としてではあるがしかし存在から区別されたものとしてやはりなんらかの仕方で特別に存在に属しているようなものをも,共に言い当てる。」
からである。ハイデッガーは言う,ここに至って,「問い」は,
「問うに‐価するという形でわれわれに対して見る見るうちにはっきりとあらわになった。いまやこの問いは,だんだんと,それがわれわれの歴史的現存在の隠された根拠であることを証示している。」
ところまで到達し,
「存在の問いを根源的に問うということは,いまや存在の本質の真理を展開するという使命を帯びるに至った」
と。そして,問いは,
人間とは誰であるか?
に辿り着く。大切なことは,
「次の三つのことである。
(一)人間の本質の規定は決して答ではない。本質的にそれは問いである。
(二)この問いを問うことと,それを決定することとは歴史的なことである。しかも単に一般的な意味において歴史的なことであると言うのではなく,このことこそ歴史の本質である。
(三)人間は誰であるかという問いはいつも,存在はどうなっているかという問いとの本質的な連関において問われなければならない。人間についての問いは,決して人間学的問いではなく,一つの歴史的にメタ‐フュジシュな問いである。」
だから,
「人間は歴史的な者として人間自身であるのだから,人間自身の存在についての問いは,『人間とは何か?』という形から『人間とは誰か?』という形に変えられなければならない。」
そしてこうまとめられる。
「人間の本質は,存在の問いの圏内で,元初の隠された指示に従って,居所として,すなわち存在が自己を開示するために強いて要求する居所として把握され根拠づけられねばならない。人間はみずからにおいて開けている所(ダー)である。この中へ存在者が入ってきて作品へと達する。だからわれわれは言う。人間の存在は,語の厳密な意味において『現‐存在(ダー・ザイン)』であると。」
掉尾の言葉が意味深い。
「問うことができるということは待つことができるということであり,しかも一生涯待つことができるということである。」
この思考の射程には,到底科学は及ぶまい。
「われわれはまだ技術の本質に対応するいかなる道も持っていない」
とシュピーゲルに応えるハイデッガーの言葉は,フクシマの予言ですらある。そして,哲学は,
サイバネティクス,
に引き継がれる,とハイデッガーが言い切っているのには瞠目させられる。
参考文献;
マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』(平凡社ライブラリー)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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