2018年03月11日

主体幻想


ダニエル・C・デネット『スウィート・ドリームズ』を読む。

スウィート・ドリームズ.jpg


本書は,サブタイトルに,

Philosophical Obstacles to a Science of Consciousness

とあるように,『解明される意識』以後十年,著者がこれで解決したと考えていた意識問題が「哲学的」に議論され続けている状況が科学の進展を阻害するものとして批判・糾弾する内容になっている。タイトルの,

「スウィート・ドリームズ」

とは,クオリアをはじめとする意識の特徴が実体のないものであり,「甘い夢」に過ぎないことを揶揄する挑戦的なタイトルになっている。『解明される意識』については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/455379804.html

で触れたように,そこで,著者は,

多草稿モデル(multi-draft model)

を提案していた。これはその後,

脳内の名声(あるいは「脳内の有名人」)モデル,

と改められ,さらに,

意識の「ファンタジー・エコー」理論,

と名づけられることになる。それは,

「意識はテレビではなく,名声に似たものである」

というもので,

「意識とは,内容を担う出来事が意識になるために『変換され』なければならない特別な『表現媒体』ではないのであり,むしろ,意識とは,脳の中の内容を担う出来事が名声を求める(あるいは,ともかくも,潜在的に名声を求める)他の出来事と競争して名声のようなものに到達することである。」

そして,脳内の小人(ホムンクルス)を出汁に,こう展開して行く。

「しかし,もちろん,意識は脳の中の名声ではありえない。なぜなら,名声があることは,多くの人々の意識を持つ心の中で共有される志向的対象であることだからである。そして,脳が無数の小人たちで構成されているものとして理解することは有用であるが,小人たちが一部の同胞を脳内有名人へ昇格させるために必要がある程度に,その小人たちを意識をもつものであると想像しようとするならば,私の意識の理論に明白な無限後退を組み込むことになってしまう問題が生じるだろう。この無限後退の可能性は,しばしばこのような前兆をうまく封じる方法,すなわち,基本的な考え方を放棄するのではなく,それを柔軟にすることによって止めることができる。そのような小人たちが,それが一部となって構成する知的媒体よりも愚かで無知である限り,小人の中の小人の埋め込みは有限で,機械に置き換えられる程度に,たいしたことのないエージェントの段階でそこを打つことがあり得る。
 したがって意識は,名声というよりは影響力,すなわちその時点において身体を制御する対立する諸過程における一種の相対的な政治力というようなものである。(中略)私たちの脳は民主的であり,実際は無政府状態ですらある。脳の中にはいかなる王も国営テレビ放送の公式視聴装置もデカルト劇場も存在しないが,内容が長期にわたって行使する政治力には,今もまだかなり際立った差異がある。意識の理論が説明しなければならないのは,比較的少数の内容がこの政治的力に高められ,その他のほとんどの内容が脳の中で展開するプロジェクトの中でささやかな役割を果たしたあと,雲散霧消し忘れ去られるのはなぜかということである。
 なぜこれが意識の理論の課題なのか? なぜなら,それこそが意識的なった出来事がなすことだからである。意識的な出来事が停滞し,『脚光を浴びて』時間を独占する。しかし,私たちはこの魅力的な比喩とその類縁である注意のサーチライトという考えを説明して消し去らなければならない。そのためには,注意を向ける単一の原点を前提にしないで,注意をつかむという機能的な力を説明しなければならない。」

ここにあるのは機能主義で,

「昨日主義とは,行いの立派な人が立派な人であるという古い諺にも奉られた考え方で背ある。つまり,物質は物質がなし得ることのみゆえに重要である。」

という立場であり,その意味では,どこかに中央集権的な主体というものがある,という古くはデカルト流の二元論を徹底的に批判する。しかし,たとえば,

「反省に関する反省状態であるメタ状態と,メタメタ状態に置かれるこれらすべての能力傾向とメタ能力けいこうといったもののすべてを…ある種のロボットに作り込むことは可能だろう。私は,この内部状態切り換えの軌跡は,私の意識の流れを説明する際の『一人称的』説明に驚くほど似ているようにみえると思う。しかし,ロボットのそういう状態には,実在する感触,現象的特質がいっさいふくまれていないだろう! 」

と,「クオリア」が抜けている,という批判はしつこくついて回る。それに,著者は,

「あなたがクオリアを,論理的にはあらゆる能力的性質と無関係に,すべての因果関係から切り離して考慮された経験の内容的性質として定義するなら,それらは,広義の機能主義のすべてを回避することが論理的に保証される。しかし,それは空しい勝利である。このような性質の存在を信じる理由がまったくないからである。」

と断言する。脳の機能の外に,それを置くことは,二元論の「われ」を無限後退させていくのと同じである。主体も,クオリアも,脳の機能として説明できる日が来るのではないか。著者は,

「意識状態には多くの性質があり,それらは今後の科学的調査の対象とすることが可能でもあり,また,対象とすべきである。そして,準備が整って私たちが説明を受けるならば,ただちにそれらの説明が,意識とは何であるかを説明するものとして満足すべきものとして判断してもおかしくないだろう。結局,これはかって生命とは何かに関する不可解性の場合に起きたことである。」

と締めくくる。生命と同じように,説明できる日がくる,ということである。

それにしても,この活発な議論は何だろう。議論の中から,真理が創り出される,を地でいくこの環境にただ羨望するのみである。問いと問いとのぶつかり合いのないところに,けっして真理は拓かれない,とつくづく思う。

参考文献;
ダニエル・C・デネット『スウィート・ドリームズ』(NTT出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1

スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8

posted by Toshi at 05:09| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください