猪熊弦一郎展「猫たち」(ザ・ミュージアム)に伺ってきた。
案内には,
「本展は彼が愛した猫達を描いた作品をまずは堪能していただき、猪熊弦一郎の奥深い世界に触れるきっかけとなるよう企画された展覧会であり、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館所蔵の猫を描いた油彩、水彩、素描を中心に、猫以外の主題の作品も若干加えた百数十点によって構成されます。」
とある。さらに,
「猫好きの人には『猫の画家』のままでよく、更に興味をもった人には大画家としての猪熊弦一郎を追い求めていただきたい。」
とも,正直,絵画には疎いので,猪熊弦一郎(1902-~1993)という画家が,どれほど偉大な方か,存じ上げない。作品が作家を語るのは,絵も文学も同じはず。僕は,今展覧会を通してのみ見た作品についてのみ,感じたこと書く。
(猫と食卓1952)
先ず初期の,明らかにアンリ・マティスの影響の強い絵は,スルーした。そして,マチス的でしかないのに,ネコに出会う(?)ことで,独自色が出てくる。
勝手に妄想したのは,もし力量が同じで,技倆も同じなら,おのれがのめり込める対象(素材でもいい)に出会ったものが,独自の世界に入っていけるのではないか,ということだ。この絵と,
(青い服1949)
「青い服」と比べると,どう描くかなど,何を描くかの前では,吹っ飛んでしまうことに気付かされる。同じマチスの影響が,さほどには感じられなくなる。
その意味で,猫を選ぶことは,一種の天啓に似ている。その世界を手にすることで,
(題不明1954)
色を絞って,二匹の猫のにらみ合う図柄で,僕は,完全に自分の世界を手に入れたと,感じた。
(題不明1950年代)
独自性とは,その人にのみ見える世界を,その人にしか描けないように見せることだ,と思っている。その意味で,自分の世界(対象)を手に入れたものにのみ,
どう描(書)くか,
が,俎上に上ってくる。何を描くか,とは,
自分にしか描けない世界は何か,
を見つけることだ。そのことのない技術は,所詮無駄花である。その世界を見つけたものにのみ,世界を描く手段としての「描き方」が,目的を以て研磨される。
「何を描くか」は,何をテーマにするかという問題と見なされがちだが,そうではない。作家が,おのれを生かす世界を見つけることだ。晩年になってやっと鷗外は,『澀江抽斎』に出会って,それを手にした。それまでの鷗外は,習作でしかない。『澀江抽斎』については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/457109903.html
で触れた。
(不思議なる会1990)
申し訳ないが,コラージュのように組み合わせた絵はスタティックでエジプトの壁画のように遺物に見え,抽象画には既視感が付きまとった。猫の絵のみに,ぼくは,どう画くかを自分のテーマとすることのできた幸運な画家を見る。
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:猫たち
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