2018年07月11日

他者


柄谷行人『探求Ⅰ』を読む。

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本書は,1986年上梓である。もとになった連載は,1985年である。30年余前である。しかし,色褪せていない,と僕は思う。

「本書は,《他者》或は《外部》に関する研究である。」

と「あとがき」で書くが,「他者」とは,ウィトゲンシュタインの言う,

「言語ゲームを共有しない者」

の謂いである。それを,ウィトゲンシュタインは,

「われわれの言葉を理解しない者,たとえば外国人」(『哲学探究』)

と例示した。著者は,

「たんに説明のために選ばれた多くの例の一つではない。それは,言語を『語る-聞く』というレベルで考えている哲学・理論を無効にするために,不可欠な他者をあらわしている。言語を『教える-学ぶ』というレベルあるいは関係においてとらえるとき,はじめてそのような他者があらわれるのだ。」

と。

語る-聞く,

教える-学ぶ,

を終始対比しつつ語る。だから,

「対話は,言語ゲームを共有しない者との間でのみある。そして他者とは,自分と言語ゲームを共有しない者のことでなければならない。」

と。「言語ゲーム」とは,ウィトゲンシュタインが,

「われわれは,ひとびとが野原でボール遊びに打ち興じ,現存するさまざまなゲームを始めるが,その多くを終りまで行わず,その間にボールをあてもなく空へ投げ上げたり,たわむれにボールをもって追いかけっこをしたり,ボールを投げつけ合ったりしているのを,きわめて容易に想像することができる。そして,このとき誰かが言う。この全時間を通じて,ひとびとはボールゲームを行っているのであり,それゆえボールを投げるたびに一定の規則を準備していることになるのだ,と。
 でも,われわれがゲームをするとき,―〈やりながら規則をでっち上げる〉ような場合もあるのではないか。また,やりながら―規則を変えてしまう場合もあるのではないか。」(『哲学探究』)

といったことに由来する。つまり,コミュニケーションにおいて,「規則(コード)によっている」のではなく,

「そのような規則とは,我々が理解したとたんに見出される“結果”でしかない」

のであり,その結果を,著者は,

「『意味している』ことが,そのような《他者》にとって成立するとき,まさにそのかぎりにおいてのみ,“文脈”があり,また“言語ゲーム”が成立する。なぜいかにして『意味している』ことが成立するかは,ついにわからない。だが,成立したあとでは,なぜいかにしてかを説明することができる―規則,コード,差異体系などによって。」

その懸隔を,著者は,

「命がけの飛躍」(マルクス)

という。この他者は,サルトルの言う「対自存在」も,ヘーゲルの言う「主人と奴隷」も,他者ではない。それは,

「自己意識ともう一つの自己意識の,互いの置き換え」

にすぎない。それは,自分の声にすぎない。この他者との関係を,

「なんら通訳可能なものをもたない二つの異なるものがいかにして等置されるのか」

という価値形態と重ね合わせている。その関係を,

社会的,

と呼ぶ。共通性があるのではなく,結果として共通性が生み出される。

著者は末尾で,一つの結論に至る。

「われわれは,ここで対話を二つに分けるべきである。一つは,一般関係(著者は『隣り合わせ』の関係という)における他者との対話である。これは弁証法と呼ばれる。それは内なる対話(内省)によって,事後の根拠・本質に向かって行く。そこに,哲学あるいは形而上学がある。もうひとつは,対関係(著者は,他者が他者性としてある『向かい合わせ』の関係という)における“他者”との対話であって,私はこれをイロニーと呼ぶ」

イロニーとは,ソクラテスのそれである。ヘーゲルの説明ではこうある。


「彼はそのことを知らない。そこで彼は人々をして語らしめるために無邪気さを装って問いかける。そして彼に教えてくれるように人々に懇願する。」

と。それによって,

「彼らが何も知ってはいないということを知ることを教えた」

のである。まさに,

教える-学ぶ関係

である。このイロニーは,

「弁証法が排除した“他者性”の回復に他ならない」

と著者は締めくくる。僕に興味深いのは,独我論を抜け出たとする西田幾太郎の,

「自己が自己自身の底に自己の根底として絶対の他を見るといふことによつて自己が他の内に没し去る,即ち私が他に於いて私人を失ふ,之と共に汝も亦この他において汝自身を失はなければならない。私はこの他に於いて汝の呼声を汝はこの他に於いて私の呼声を聴くといふことができる」(『私と汝』)

について,「いささかも他者性をもたない」と一蹴し,

「独我論を出ようとする独我論」

と呼んだ。著者の言うように,これは,

「神(一般者)と私」

の関係に過ぎず,こう言い切っている。

「“他者性”としての他者との関係,“他者性”としての神との関係を排除している。…私と一般者しかないような世界,あるいは独我論的世界は,他者との対関係を排除して真理(実在)を強制する共同体の権力に転化する。西田幾太郎やハイデッガーがファシズムに加担することになったのは,偶然(事故)ではない。」

ウィトゲンシュタインの言葉に,

人は持っている言葉によって見える世界が違う,

というのがある。それは,言葉を交わしていても,何かを共有していることとはならないのだと思う。今日,実は言葉の意味の強制がすさまじい。それは,他の排除どころか,異質そのものの排除に見える。しかし,そのことに対峙するべき知は,無力さを増しているように見える。西田的な,

「自己の根底として絶対の他を見るといふことによつて自己が他の内に没し去る,即ち私が他に於いて私人を失ふ,之と共に汝も亦この他において汝自身を失はなければならない。」

世界が近づいている気がしてならない。

参考文献;
柄谷行人『探求Ⅰ』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:05| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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