「鬨(とき)」は,
鯨波,
時,
とも当てる。『広辞苑』には,
「合戦の初めに全軍で発する叫び声。三方の士気を鼓舞すると共に,敵に向かって戦いの開始を告げる合図としたもの。敵味方が相互に発し合い,大将が「えいえい」と二声発すると,一同が「おう」と声をあげて合わせ,三度繰り返すのを通例とした,
とあり,
鬨をあわす,
とは,
敵の鬨の声に応じて味方が鬨の声をあげることをいう,
とあり,鬨をあげるのを,
鬨をつくる,
とも言う。「鬨」(漢音コウ,呉音ク)の字は,
「門(たたかう)+音符共(いっせいに)」
で,
ときの声,
戦場で,一斉にあげる声,
で,どちらかというと,我が国のような「鬨をつくる」というよりは,どっとあげる喚声のイメージである。だから,
鬨ふ,
で戦うという意味にもなる。
(「鬨」小篆,漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AC%A8より)
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AC%A8
は,
「会意形声。『鬥』+音符『共』。『共』は手を『そろえて』物をささげる様。そろって争う。」
とある。『世界大百科事典』には,
「一般に戦場でのさけび声をいう。敵味方対陣するなか,戦闘は,それぞれがまず鬨をつくることから始められた。戦勝での勝鬨(かちどき)はよく知られている。《和訓栞》には〈軍神招禱したてまつる声を時つくるといひ,敵軍退散して神を送りたてまつる声を勝時と名(なづ)くともいへり〉とある。出陣にさいしても鬨をつくったことは,《吾妻鏡》の宝治合戦(1247)を記す部分に〈城九郎泰盛……一味の族,軍士を引率し,……神護寺門外において時声を作る〉とある例からも知られる。」
とあり,「勝ち鬨」について,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%A8
は,
「『鴉鷺合戦物語』(15世紀末前後)にも作法についての記述があり、戦初めの時に『鬨を三度』出し(これは13世紀成立の『平家物語』『平治物語』も同じ。)、戦後の勝ち鬨に関しては、『勝ち時(鬨)は一度、始め強く、終わり細かるべし』と記している。
上泉信綱伝の『訓閲集』(大江家の兵法書を戦国風に改めた書)巻十『実検』の中の、帰陣祝いの規式の法、の項に、『勝凱をつくることは、軍神を送り返し、奉る声なり』と記述されており、信仰的な面と繋がっていたことをうかがわせる。なお『訓閲集』の表記では、「えい」も「おう」も異なり、『曳(大将が用いるエイ)』『叡(諸卒が用いるエイ)』『王』の字を用いており、また、軍神を勧請する際、『曳叡王(えいえいおう)』と記し、大将が『曳』と発した後に、諸卒が『叡王』とあげるとしており、声に関しては、『初め低く、末高く張り揚げる』と記している(前述の15世紀成立の『鴉鷺物語』と表現に変化がみられる)。」
等々とあり,いってみれば儀式化していく。たとえば,
「大将の乗馬は東向きにし、凱旋の酒宴において大将は右手に勝栗(『搗栗』。弓とする流派もある)を取り、左手に扇子(軍扇とする流派もある)を開き、あおぎながら発声し、諸軍勢一同が武器を掲げてこれに声を合わせることを『勝鬨』と言った。なお、戦勝後のみならず出陣式で行うのも勝鬨と言い、出陣の際には『初め弱く終わり強く』、帰陣の際にはその逆にしていたと伊勢貞丈の『軍用記』には記されている。」
とあるが,あの信長でさえ,熱田神宮で戦勝祈願をしている。士気鼓舞にも縁起担ぎにも必要な手続きだったのだろう。それを,『武家戦陣資料事典』では,こう書いている。
「この時代(源平合戦期)の合戦の駆引はどう行ったかというと,先ず双方,部隊を配して威勢をあげるために鬨を上げる。大将や主だった者が音頭をとって『えいえい』と叫ぶ。間髪をいれず全員で『おーう』と答える。腹の底から全身で叫ぶのでヤマハ賑わうように轟き敵を威嚇するのであるが,士気が沈滞していると反って頼りない音声となり,敵にさとられてしまうので小人数でも大勢いるように怒鳴る。大将の音頭の状態で何度でもあげる。敵も負けじと鬨をあげて威嚇する。鬨は戦直前の恐怖を振り落して気力を充実させるためにも必要のことで,全員が一斉にそろう場合と,部隊の配置によって尾を引くように強まるものと尾を引くように弱まる時とがあり,戦馴れた物師(戦い慣れた武士)にはその調子で敵味方の士気から勝敗の予想をたてるものもある。」
ことほど左様に,結構重要な儀式ではあったらしい。
さて,「鬨」について,「鯨波」と当てるのは,
大波,
という意味なので,波が次々押し寄せるように声の波を拡げるというメタファとして使う,というのはわかる。『字源』の「鯨波」(げいは)の項に,
大波,ときに鬨の声に喩ふ,
とあるので,これも中国由来とみられる。しかし,「鬨」に,
時,
の字を当てるのが気にかかる。他の辞書からは由来を探る手がかりは得られないが,『大言海』には,
「古へ,禁中にて,夜,時を奏(まう)す聲に起ると云ふ。転じて,衆人の呼聲ともなる。又,鬨は孟子,梁惠王,下篇,趙注『鬭(闘)声也』と。鯨波は,祖庭事苑,四『鯨常以五月就岸,生數萬子,至八月引子還海,鼓波成雷,噴水成雨,云々』の句に因ると云ふ。」
とあり,時を告げる声に由来するという。
時を奏す,
という言葉があり,『岩波古語辞典』には,
「昔宮中では,夜警の兵士が,亥の一刻から寅の四刻にわたり一刻ごとに時間を奏上した」
とある。また,
時の奏,
ともいう。『広辞苑』にはこうあり,より詳しい。
「律令制では陰陽寮に時守(ときもり)を置き,漏刻すなわち水時計を見守らせてその時々の鐘鼓を打たせ,宮中では亥の刻の初めから寅の刻の終りまで宿直の官人が一刻ごとに時の簡(ふだ)に杙を差し替えて時を告げた」
とある。しかし,これでは声を上げていない。「時の簡(ふだ)」とは,
「清涼殿殿上の小庭に立てた時刻を掲示する札。札に刺した杙(くい)を時刻こど内豎(ないじゅ)が差し替えた」(『広辞苑』)
とあり,その位置は,
「『禁腋秘抄』に『下侍二間あり、東は妻戸なり、次一間蔀なり。二つにわりて、西は、おろして、御膳(もの)棚をその前に立て、そばに時の簡をたてたり』とある。 一昼夜12時を各時4刻にわけ、第4刻のときのみ時の杙をさしたらしい。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E3%81%AE%E7%B0%A)
いずれにしろ,主上に奏上するのは,別に叫ぶわけではない。「鬨」の由来は,「時」と重なるだけに,時刻を告げることと重なるが,それ以上には確かめられなかった。
参考文献;
笹間良彦『武家戦陣資料事典』(第一書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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