2018年07月26日

外部


柄谷行人『探求Ⅱ』を読む。

img112.jpg


『探求Ⅰ』では,他者を問題にした。

「この私と他の私とが同一ではなく,また同一の規則体系にも属さないような条件を考察し,それを『売る-買う』や『教える-学ぶ』といった非対称的なコミュニケーションの関係に求めた」

つまり,「言語ゲーム」を共有しない他者である。本書では,実は,そういう他者との関係に視点を当てる。「あとがき」で,

「問いつづけてきたのは。『間』あるいは『外部』において生きることの条件と根拠」

と書く。それは,

「理論の問題ではなく生きることの問題」

とし,本書では,それを,

超越論的,

という言葉で表現する。

「超越論的主観とは,外部的であろうとする“態度” そのものなのだ」

と。

「《超越論的》ということは,…外部的であることだが,しかし,それは実際に共同体の外にあったりそれを超越していることを意味するのではない。共同体を超越して世界一般について考えることが,まさに共同体の内部に在ることなのだ。
 超越論的自己は,したがって自己意識ではない。自己意識は,たしかに自分の属している世界をこえる。しかし,それは反省にすぎず,つまり鏡像の中にあるにすぎない。したがって,《超越論的》であることは,たんに自己関係(自己言及)的であるのではなく,共同的なシステムに対して自己関係的であるのでなければならない。」

「あるシステムに対して自己関係的であり,そのかぎりで外部的であることを意味している。」

だから,もちろん「自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない」。

「私は,超越論的ということを,自己意識の構造や自我の統一などといった問題に限定しないで,われわれが経験的に自明且つ自然であると思っていることをカッコにいれ,そのような思い込みを可能にしている諸条件を吟味(批判)することだという意味で考える。」

「さらに重要なことは,私という主体はないと言うこと,ランボー流にいえば,『私とは他者だ』と言うことが,それ自体超越論的な主体によって可能だということである。
 そのような主体が在るというならば,それはただちに経験的な主体になってしまう。あるいは超越的な主体になってしまう。超越論的主体は,世界を構成する主体=主観ではなく,そのような世界の外部に立とうとする実践的な主体性においてしかないのである。」

その出発点は,

単独性,

である。「この私」「この物」の「この」である。それは,

個体の特殊性,

とは異なる。

「主観は『この私』ではない。主観とは誰にでも妥当するものだ。事実,『私』という主体(主観)は,言語の習得のなかで形成されるものであり,それはもともと『共同主観的』である。いいかえれば,『私』という類の特殊でしかない。しかし,単独性としての『この私』は,そのような主観ではない。(中略)この私は,この物やこの他者との関係においてしかあり得ないのである。私も他者も物もあるが,この私・この他者・この世界が存在しないような世界は分裂病的である。」

それは,

固有名,

にも通じる。

「固有名は外国語のみならず自国語においても翻訳されない。つまり,それは一つの差異体系(ラング)のなかに吸収されないのである。その意味で,固有名は言語のなかでの外部性としてある。」

そこで,デカルトの「コギト」が改めて問い直される。

「『コギト』がたんに『思惟』することではなく,それまでの“慣習”(システム)のなかでの思惟をすべてカッコにいれることを意味するからであり,(中略)『私が考える』が“慣習”にすぎないのではないかと疑うことにしかない。つまり,この疑うことそれ自体が“精神”の証明なのである。
 デカルトによる“精神”の論証は,読者に“精神”を要求する。彼は,自分の論証は,『先入見からまったく解放せられたる精神を,自分自身を感覚との交わりから容易にたち切ることのできる精神を要求する』といっている(『省察』)。デカルトがいいたいのは,われわれが心をもち意識をもつといったことは“精神”の証明にはならないということだ。そのような意識または自己意識は,いわば“身体”なのだ。」

その「精神」は,システムの外に立つことを要求する。このデカルトの方法が,

超越論的,

なのである。ただし,それは,

「上方や下方に向かうことではない。それはいわば横に出ることだ。…デカルトの『方法的懐疑』が,もはやどんな立場でもありえない立場,《外部性》としての立場においてのみ可能である」

その意とすることは,内省(自己対象化)やメタ化(超越的)ではない。

「われわれが『思惟』とよんだり『内面』とよんでいるものは,社会的な“慣習(言語ゲーム)”にすぎない。『私は考える』は,少しも私的ではない。内的なものは,徹頭徹尾社会的(制度的)である。それはデカルトのいう“身体”であって,“精神”ではない。」

このデカルトのコギトが「一般的な私(主観)ではなく」外部性,単独性,言い換えると,超越論的な立場に立つ。そこで,『探求Ⅰ』のソクラテスの対話に,戻ってくる。

「ソクラテスが提出したのは,世界や自己に理性が内在するという考え方ではなく,『対話』を通過したものだけが理性的だという考え方である。」

それは外部,他者との対話である。フロイトの精神分析に,著者は同じ対話を見る。

「精神分析は『対話』でなければならない。(中略)フロイトは,いわばソクラテス…の斥けた他者を,『対話』の場に連れこんだ。(中略)しかし,そのとき,彼はけっして対話に入らない者たちを見出したのである。(中略)分裂病者は,感情転移してこない。彼らは《他者》である。そのとき,彼らを『ナルシズム神経症』とよぶのは,本来感情転移(同一化)するはずの者がそれを拒否して背を向けたというのにひとしい。それは,他者の超越性(外部性)を,内在化することである。他者の外部性をみとめるかわりに,それを内部からの脱落者(退行者)とみなすのである。(中略)リビドーし,感情転移関係においてのみ根拠をもつ概念であり,しかるに分裂病者が感情転移してこないとすれば,フロイトはどちらかを選択しなければならない。つまり,リビドー理論を貫徹すれば,分裂病を退行とみなければならず,分裂病者を他者と見れば,リビドー理論を放棄しなければならないのである。だが,フロイトはこの選択を強いる『境界』に立ちつづけたようにみえる。ユング派も,反精神医学も,それぞれ違った意味においてだが,フロイトを批判すると同時に,彼が見出した『境界』そのものを洗い流してしまったのである。」

こういう姿勢を,

超越論的,

というのであろう。

「理論の問題ではなく生きることの問題」

とはこのことであろう。それは,是非はともかく,ある意味で,本書は,予言になっている。今日のわれわれほど,超越論的であることが必要なのである。

「特に日本において支配的なデカルト的な主体への批判は,一つには,主-客分離をこえて主-客合一の境地へ至るというような類のものである。そして,西洋における『主体』批判の言説がそこに援用される。しかし,それは個としての私を,たえず共同体の中に回帰させようとする支配的な言説(文法)に強制されているのではないか,と疑ってみることができる。そのように疑う私が,いわば超越論的なった自己である。それは個としての私ではなく,外部性・単独性としての私である。」

そういう超越論的なった立場こそが,今日こそ求められる。知的退廃とは,主-客合一の圧力である。類(一般性)に呑みこまれる個(特殊性)ではなく,その外に立ち,超越論的なった立場に立つ「この私」という単独性なのである。

参考文献;
柄谷行人『探求Ⅱ』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:05| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください