對馬有輝子 個展(報美社)に伺ってきた。
僕は絵を観るとき,タイトルを観,絵を観る。タイトルは,作家の見てほしい(あるいは作家がそこに見た)世界だ。しかし,それと,絵から僕自身が受けるものとは,必ずしもシンクロするとは限らない。なんだ,そんなタイトルか,という思いで,改めて絵を見直し,そこで,絵の見せる(というか,僕が見る)世界とタイトルに示された世界とを重ね合わせる。そのとき,僕がタイトルから見る世界は,作家の見る世界とは異なるはずだ。たしかヴィトゲンシュタイン(だったと思う)が,
人は持っている言葉によって見える世界が違う,
と言った。しかし,同じ言葉だ(を持っている)からといって,同じ世界を見ているわけではない。言葉に,ひとはおのれの経験と知識を見る。もっと峻別するなら,たぶん,ひとは,そのひとの,
自伝的記憶(は多くエピソード記憶と重なる),
を見る。だから,すごく大袈裟な言い方をすると,
作家のタイトルに見る世界
と,
そのタイトルに観客が見る世界,
は別々なのだ。だから面白い。しかも今回,タイトルは,凝りに凝って,ある意味,抽象度が高く,
詩的,
であるだけに,様々に思い入れる陰翳がまつわりつく。その意味では,作家の凝ったタイトルと観る側の言葉にみる世界との微妙な振幅によって,人によって見える世界が異なるのだろう。言葉と絵の共振れによって,見えてくる世界が作家とそれとどう違うのかを,想像しながら観て回るのも,なかなか面白い
昨年の個展については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/448939211.html
で触れた。そこで,作家の「喩」について,言語でいうメタファー(隠喩)になぞらえた。つまり,描かれた具体的な対象は,何かに喩えとして描かれている,という意味である。
今回,それがますます強まっているという印象を受けた。あるいは,別の言い方をすると,
象徴,
と言ってもいい。たとえば,「たったひとつの ゆずれないもの」というタイトルの絵は,龍の手にしているもので象徴的に示される。俗物の僕には,ドラゴンボールに思えたが,それはそれで希望の象徴と見える。
(「たったひとつの ゆずれないもの」)
(「あともう少しで」)
(タイトルと絵を記憶違いしているかもしれないが)個人的には,「あともう少しで」にまず指を折る。願望は,いつも,あと少しのところに手が届きそうで届かないまま,水中の月影のようなものだ。次に指を折るのは,一対になっていた「生きとし生けるもの」という大作だ。巨大な鳥の肢と爪をどう見るかによって,絵の奥行が変わるかもしれない。僕には,生きとし生けるものを被う,巨大な生のエネルギー,まさに火の鳥に見えた。喩というかアナロジーは,それを何に見立てるかで,世界は変わるだろう。
(「生きとし生けるもの」)
コラージュ風な「対話する惑星」や「噂する惑星」もいいが,僕には,案内ハガキの「そこにあるもの」という鶴を象徴にしたものや,「たどりついたときに」のような白馬(天馬とみてもいい)を象徴にしたもののような,躍動する一瞬を切り取ったもののほうが,イメージは広がる気がする。ただ,馬にしろ,鶴にしろ,具体的形象は,どうしてもそのイメージに引きずられ,見る側の飛躍の足枷になる気がする。その意味では,鶴(丹頂鶴)よりは,白馬の方が,さらに,見えない脚と爪のほうが,自分の世界を開ける気がする。
(「対話する惑星」)
(「たどりついたときに」)
タイトルの私的言葉と具象的な絵との会話は,作者のそれと観る側のそれとが,交錯して,世界を開く,ということを改めて,いろいろ考えさせられたが,とりわけ,タイトルは,作家にとって,観るものへの一種のチャレンジであることをつくづくと感じ入った。タイトルは重要だと,改めて再認識した。
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