飢饉
菊池勇夫『近世の飢饉』を読む。
本書は,江戸時代の飢饉を,
寛永の飢饉,
元禄の飢饉,
享保の飢饉,
宝暦の飢饉,
天明の飢饉,
天保の飢饉,
と順次追っていく。しかし,その前の元和にも飢饉があり,実は,戦国時代もまた飢饉の時代であった。というより,
七度の飢饉に遇うとも,一度の戦いに遇うな,
という言い伝えがあるほど,飢饉は常態であった。慶応にも,明治になっても飢饉がある。さらに,
「近代に入っても明治二(1869)年,同十七年,同三〇年,同三五年,同三八年,大正二(1913)年,昭和六(1931)年,同九年と東北地方を中心に凶作が繰り返された。」
と,近代になっても続くのである。例えば,本書の年表を見ると,
元和元年(1615)奥羽冷害による大凶作,
寛永元年(1624)陸奥飢饉,
寛永三年(1626)旱魃により諸国飢饉,
寛永一六年(1639)西日本で牛疫病(翌年がピーク),
寛永一八年(1641)旱魃・洪水・冷害などで全国的に大凶作,
寛永一九年(1642)大凶作,
と,飢饉が続く。特に江戸時代始め,一七世紀は,一大水田開発時代で,中世までは水田中心ではなかった地域まで,開発が進む。
「大河川の乱流する沖積平野が幕藩領主の大土木事業によって美田に作りかえられ,(中略)全国の高知面積および実収石高は,1600年段階においておよそ206万5000町歩・1973万1000石であったものが,100年後には284万1000町歩・3063万石に増え,これに伴い人口も1200万人から2769万人に急増した。」
東北各藩でも,事情は同じで,
「十七世紀の大開発時代を通して東北農村は一部山間地帯を除き,水田稲作を基調とする田園地帯に変貌を遂げた」
のである。しかしこの時期稲作の北限であるこの地域にとって,冷害に強い赤米ではなく冷害に弱いとされる「岩が稲」というような「商品として売れる多収量」の晩稲を作付けせざるをえない。それは,「市場経済の論理が米づくりの現場に」入り込んみ,
「年貢米にせよ農民手元米にせよ,全国市場に販売するための商品に基本性格が大きく変えられてしまったからである。」
たとえば,仙台藩では,
「販売を目的として江戸回米は『武江年表』などによると,寛永九(1632)年に始まるとされ,後々には江戸の米消費量の三分の一ないし三分の二を仙台米が占めたとまでいわれ,…1650年代,すでに蔵米七~八万石,家中米・商人米七~八万石の合わせて一五~一六万石もの米が回米されていた。年貢米のほか藩による買米もすでに一七世紀段階に始まっていた。」
つまり,
「東北各藩の活発な江戸・上方回米をみれば,一七世紀後半の新田開発は,おもに大消費地たる上方や江戸への年貢米売却を目当てに,藩権力によって積極的に取り組まれた」
のである。これが,冷害・凶作時に悲劇を倍化させる。例えば,弘前藩では,寛永飢饉に際し,
「米価の高騰する端境期に,前年度米を売り急いで儲けようとする藩当局の判断が領内の米払底をもたらし,はやくも八月末に餓死者が出るような飢餓状態を招く」
のである。この背景にあるのは,
「参勤交代制によって江戸に藩邸が設けられ,そこに居住する大名妻子の生活費や家臣団の俸給はむろん,幕府への奉仕や諸藩との交際など『江戸入用』がかさみ,それへの送金を必要とした。年貢米の三分の一以上が『江戸入用』に当てられ,…そうした増大傾向の江戸での出費を賄うためには,年貢米を上方や江戸に売却して貨幣を獲得するほかなかったのである。」
しかも,
「農民たちは,年貢米を上納した残りの手元米を在町や城下の商人に売却して現金を手にし,それで農具や生活用品を購入する生活・消費サイクルのなかにまきこまれるよになっており,凶作の備えはあとにしても,少しでも米相場があがれば売りたくなる衝動に駆られる時代に突入していた。」
農民自身もまた,先を争って高値で売りさばこうとする。
江戸期の飢饉の中で,享保の飢饉に際してのみ特徴的なのは,他の飢饉では見られない,幕府の積極的な介入である。そのため,「飢饉状態からの脱却が比較的はやかった」とされる。
行政がなすべきことをなせば,ある程度の救済ができるのである。飢饉に対して,各藩の対応で死者に格段の差が付くのも,同じである。天明の飢饉の教訓から,「社倉」という,
「民間の人々がそれぞれ穀物を出し合って自治的に共同管理する備荒倉」
があるが,例えば秋田藩では,
「藩側による統制力の強い郡方備米が設置されていたが。しかし。天明の飢饉の経験が遠くなると,備米嫁し付けの金融利殖の方に関心が傾き,現物を貯える備荒の本来の機能がないがしろにされてしまい」
「天保三(1832)年は六~七分の作柄にとどまり,そのため貸方分を回収することができず,帳面上はともかく空き蔵状態となった。また,天保三年七,八月ごろ米値段がにわかに高くなり,自分用に『凶作の備籾』をもっていたものたちもこの時とばかり売り払ってしまった」
ために,翌四年の大凶作に無防備となった。
江戸時代,あるいは戦前まで,不純な天候に襲われ,定期的に飢饉に見舞われた。二二六事件は,そのさなかで起きている。それは過去の話ではない。戦後1993年には大凶作が再来し,急遽外米が緊急輸入される事態となった。
今日,耕作地が放棄され,高齢化が進む中,飢饉は,別の形で來る。しかし,その備えは,いまの政府にあるのだろうか。今度は,国際的な大凶作になったとき,江戸時代に国内で起こったことが,世界規模で起こる。穀物自給率30%と低いわが国に,その備えがあるとは思えない。飢饉は,必ずしも過去のことではないのである。
参考文献;
菊池勇夫『近世の飢饉』(日本歴史叢書)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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