足軽


「足軽」の意味は,時代によって少し違うが,当初は,『大言海』の言う,

「軽捷に走り回りて働く意,萬葉集に足柄(アシガラ)小舟(ヲブネ)とあるも,船足の軽き意なりと云ふ」

の通りで,『日本語源広辞典』も,

「足軽く疾走する雑兵」

とある。『日本語源大辞典』も,

足軽く走るから(貞丈雑記),
呉子に,軽足とある物に相当する。能ク走ル者の意(南嶺子・嘉良喜随筆・和訓栞),

にある通りである。しかし戦国時代とそれ以前とは意味が変わる。たとえば,

「鎌倉時代の軍記物にすでに足軽という名称がある。当時の戦争は,騎馬による個人的戦闘が主であるから,足軽は,主要戦闘力としてではなく,後方攪乱,放火などに使用され,荘園の一般農民から徴発された。鎌倉時代末期から南北朝動乱以降,戦闘形態が,個人的戦闘から次第に歩卒による集団的戦闘に変化していくに従って,戦争における足軽の活躍が顕著になった。室町時代には,平時は農耕に従事する農民が戦時には陣夫として徴発される体制が一般的に成立した。特に山城,大和などは荘園制の崩壊,農民層の分解が早かったので,この体制の成立も早かった。応仁,文明の大乱 (→応仁の乱 ) のときには,畿内には山城足軽衆や郡山足軽衆などと呼ばれる足軽の組織があって,東西両軍いずれかの陣営に属していた。彼らは経済的目的のみに走り,放火略奪をもっぱらにした。一条兼良が『樵談治要』のなかでこれを時局の弊としてあげているのは有名。」(『ブリタニカ国際大百科事典』)

とある。応仁の乱において,

「土民(百姓)が『足軽と号し』て略奪を働いている(『大乗院寺社雑記』)といわれ,あらたに足軽という名の雑兵たちが出現するのです。戦場の主役は土一揆に代わった足軽たちで,『足軽と号す』つまり『おれは足軽だ』とさえいえば,戦場となった京では,略奪も野放しだったらしいのです。」(藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』)

この時,土一揆の主役だった百姓が周縁の村々から流れ込んできていた。このとき,

「東軍の足軽(疾足)300余人が宇治神社を参詣する姿を人々が目撃したものとして、『手には長矛・強弓を持ち、頭には金色の兜や竹の皮の笠、赤毛など派手な被り物をかぶり、冬だというのに平気で肌をあらわにしていた』という」

し,

「『東陣に精兵の徒300人あり、足軽と号す。甲(かぶと)を擐せず、矛をとらず、ただ一剣をもって敵軍に突入す』と記され、兵装に統一性がなかった」

らしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD)。しかし,戦国時代になると,

「戦国大名の統制によって,兵農分離が進み,戦争も鉄砲,火薬などが使用されるようになったのでその重要性が増し,訓練された歩卒となり,足軽大将の下に鉄砲足軽,弓足軽として常備軍に編入された。」(仝上)

とある。

上記にある,「雑兵」(ぞうひょう)は,足軽とイコールではない。戦国時代,

「身分の低い兵卒をいう。戦国大名の軍隊は、かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた。
①武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
②武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
③夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである。」

と,雑兵の中には,侍と武家の奉公人(下人)も動員された百姓が混在している(藤木久志『雑兵たちの戦場』)。

いわば,武家の家臣には,家子,郎党,若党。忰者(かせもの),がいる。ここまでは,名字を持つ。

「武士の従者で,地位の高い者を郎等,郎等のうち主人と血縁関係のある者を家子(いえのこ)と呼」

ぶ。「郎等」は「郎党」とも書き,

ろうとう,
ろうどう,

とも訓む。家子は,

「郎等のうち主人一家に擬せられた」

ものとあるので,必ずしも血縁を意味しないようだ。その下の従者には,

若党(わかとう),
忰者(かせもの),

がいる。

家子→郎党→若党→忰者,

の順位で,「若党」は,

「本来は年輩,器量のしかるべき老党に対して,若者の寄合という意味からおこった称呼である。《貞丈雑記》には〈若党と云はわかき侍どもと云事也〉とあるが,若党という称呼は,室町時代まではまさしくこの意味で使われており,主君の側近くに仕えて雑務に携わるほか,外出などのときには身辺警固を任とする若侍たちをさす。〈一人たう千のはやりおのわかとう〉とか〈譜代旧恩ノ若党〉といった表現が示すように,若党は武士としての評価も高く,また主君とは強い情誼に結ばれている場合が多いので,合戦の際などにも,主君と命運をともにしている若党の事例は枚挙にいとまない。」(『世界大百科事典』)

となる。「忰者」は,

「貧しい者の意」(『岩波古語辞典』)

で,

「苗字を持つ侍身分の最下位」

であり,この下に中間が来る。

「中間は〈名字なき者〉とされた(《小早川家文書》)。戦国期の農村では,〈ちうげんならばかせものになし,百姓ならばちうげんになす〉(《児野文書》)というように,農民が中間からかせ者へと侍身分に取り立てられるのが名誉・恩賞とされ,〈諸奉公人,侍のことは申すに及ばず,中間・小者・あらし子に至るまで〉(《近江水口加藤家文書》)というように,武家の奉公人には侍,中間,小者,荒子の四つの身分序列が一般的に成立していた。」(仝上)

中間→小者→あらし子,

に順位づけられる。しかし,彼らは,侍の身分とされている。豊臣秀吉が天正十九(1591)年発した3ヵ条の身分統制令では,

「侍(さむらい),中間(ちゅうげん),小者(こもの)ら武家奉公人が百姓・町人になること」

を禁じた。つまり,この時点では,あらし子までは侍身分としたのである。彼らは,戦場で土木,小荷駄,炊事などの雑役に従事した。まさに,

雑兵,

に当たる。

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参考文献;
戸川淳編『戦国時代用語辞典』(学研)
藤木久志『【新版】雑兵たちの戦場-中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日選書()
藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』(朝日選書)

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コトバの辞典;
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