「城」(呉音ジョウ,漢音セイ)の字は,

「会意兼形声。成は『戈(ほこ)+音符丁(うって固める)』の会意兼形声文字で,とんとんたたいて,固める意を含む。城は『土+音符成』で,住民全体をまとめて防壁の中に入れるため,土を盛って固めた城のこと。『説文解字』には『城とは民を盛るもの』とある」

とある(『漢字源』)。

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中國では,日本と違い,町全体を城壁でとり巻き,その中に住民をまとめて住まわせる。四方に城門があり,場外の街道沿いに発達した市街地には,さらに郭(外城)をめぐらして,外敵から守る(仝上)。

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ただ,日本でも,戦国末期,

総構え(そうがまえ),
総曲輪(そうぐるわ),

といい,

「城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造」

のものもある。

「後北条氏の拠点、小田原城の総構えは2里半(約9km)に及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なものであった。大坂城の外郭も周囲2里の長さで、冬の陣では外郭南門の外側に出丸が造られ(真田丸)、徳川方は外郭内に1歩も侵入できなかったという。また江戸時代の江戸城外郭は最大で、堀・石垣・塀が渦状に配されて江戸市街の全てを囲んでいた。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E6%A7%8B%E3%81%88

さて,「しろ」の語源である。

「城」は,「柵」とともに,元来,

キ,

と発音され,漢字が普及すると,

呉音ジョウ,

と専ら撥音された(西ケ谷恭弘『城郭』),とある。

「城(き)は、城を表す古語。上代特殊仮名遣ではキ乙類。」

とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E_(%E3%81%8D))。さらに,その「キ」は,

「『三国史記』地理志に、「悦城県本百済悦己県」(今の『悦城』県はもと百済の『悦己』県である)、『潔城県本百済結己郡』(今の「潔城」県はもと百済の『結己』郡である)という記述が見られる。これらの例は、“城”の意味を表す百済の言葉(百済語)が、漢字『己』の音で写されていたことを示している。藤堂明保の推定によれば、『己』は上古音 [kɪəɡ],中古音 [kɪei] となる。李基文は、百済語で“城”を意味する語が [kɨ] であったことは確実とし、上代日本語の『城(き乙)』を百済語からの借用語と考える。」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E_(%E3%81%8D))。この「城(き)」は,

葛城,
稲城,
茨城,

ということばに,かつての築城形態の痕跡が見える。

「忽ち稲を積み城を作る,其堅くして破られず,此稲城と謂ふ也」(書紀)
「茨を以て城を造り,以て地名に便(よろ)しく,茨城と謂ふ」(常陸風土記)

等々。

その「城(き)」を,『大言海』は,

「山背(やましろ)國を,延暦年中に,山城(き)國に改められしを,舊稱に因りて,シロと訓み来たりしに起こる云ふ」

と,「シロ」と訓んだとするし,『日本語源大辞典』も,

「延暦十三年(794)に桓武天皇が平安京に遷都したときに,山背國を山城国に改めてから『城』に『しろ』の訓が生じたとする説が有力である。」

とするが,しかし,それは「城」を「しろ」と訓んだというだけの意味だから,

「『しろ』を城郭の意に用いた確例は中世以前には見当たらない」

ようである(西ケ谷恭弘・仝上)。確かに,

「シロと読まれるのは,収穫物,兵粮,衛士(えじ)を集置する所と,区画としての選地状況が結びついたもので,南北朝争乱期もしくは室町中期ころからではないか」

とするのが正確のようである(西ケ谷恭弘・仝上)。

とすると,「城」を「シロ」と訓む経緯とは別に,今日の「城郭」の意で「城」を「シロ」と呼ぶようになったのには,上記の山背→山城とは別に,語源を考えなくてはならない。

「城は,貯蔵機能をもち垣檣(えんしょう)で区画した空間であった。すなわち憑(より)シロ(招代)・ヤシロ(家シロ・屋シロ・社)・苗シロ・松シロ・杉シロなどにみられるようにシロは,場所・区画であり,宿り,集まり,集置の粮所の区域をいう。シロはシルシスナワチ標(しるし)が語源であるとされる」

というのは一つの見識である(西ケ谷恭弘・仝上)。

『岩波古語辞典』は,「シロ」は,

「シリ(領)の古い名詞形か。領有して他人に立ち入らせない一定の区域」

とするが,それなら「標」の意と同趣である。

『日本語源広辞典』は,

「知る・領るの名詞形のシロ(国見をする場所)」

としつつ,

「シロは,場所で,まつたけのシロ,ナワシロ,ヤシロなどのシロと同源」

とも考えられると,上記西ケ谷恭弘説をも挙げる。山城説は,「城」の訓みの語源であって,「城」の意の語源ではないので,省くとして,『日本語源大辞典』は,諸説を次のように羅列する。

遠いところからでもイチジルシク見えるところから,シルキの略転か(日本釈名),
白土を塗るところからシロ(白)の義(日本釈名・名言通・和訓栞),
土地をならして平らにする意のシロ(代)から(延喜式祝詞解・類聚名物考),
それと定め区(かぎ)ったところをいうシロ(代)の意から(古事記伝),
シキシメ(敷標)定めたトコロ(処)の意(日本語源=賀茂百樹),
領地の意か(和訓栞),
シル(知る)の義(言元梯),
下地の意(俚言集覧),
シロ(仕呂)の義で,シは作り成す意,メは覆い包み集まり含む醫(柴門和語類集),
ヌシ(主)のトコロの意か(和句解),
シマリノトコロの略(本朝辞源=宇田甘冥),
シはシキナラシ(重平均)の約。ロはヅラ(連)の約ダの転(和訓集説),

等々明らかに,後世一般化した織豊系の白壁の城を前提に考えていると思われる語源説は,笑うしかない。「織豊系」とは,今日見る城で,

「中世・戦国時代初期の城郭は、土塁の上に掘り立ての仮設の建物を建てたものがおもであったが、鉄砲、大砲の普及によって室町末期から安土桃山時代には、曲輪全体に石垣を積み、寺院建築や公家などの屋敷に多用されていた礎石建築に加えて壁に土を塗り籠める分厚い土壁の恒久的な建物を主体として建設され、見た目も重視して築かれたものが現れた。
こうした城は室町末期以降、特に松永久秀が多聞山城や信貴山城を築いたころや、織田信長が岐阜城や安土城を築城したころに発生したと考えられている。その後豊臣秀吉により大坂城や伏見城などが築かれ、重層な天守や櫓、枡形虎口を伴う城門に代表される、現在見られるような『日本の城』が完成した。この形式の城郭を歴史学上、『織豊系城郭』と呼ぶ。織豊系城郭はその呼称で表されるように織田信長、豊臣秀吉麾下の諸大名がおもに建設したが,(中略)
豊臣政権や徳川幕府は、政権が直轄する城の築城を、各地の大名に請け負わせた(天下普請)。このことにより、織豊系城郭の技術が諸大名に広まり、各地に織豊系城郭の要素を取り入れた城が多く現れた。」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9F%8E)。

「城」は,たぶん,別に意図していた「しろ」をあてはめたものと考えるのが自然だと思う。とすれば,

「憑シロ(招代)・ヤシロ(家シロ・屋シロ・社)・苗シロ・松シロ・杉シロ」

などにみられる「しろ」と同じ,場所・区画を意味すると考えるのが妥当に思える。たとえば,「悪党」は,荘園に侵入すると,

「城郭を構え,当國,他国の悪党等を籠め置」

いたとされる。それは,「この荘園はおれのものだ」という意思表示でもあった,という(藤木久志『戦国の村を行く』)。まさに,標である。

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参考文献;
西ケ谷恭弘『城郭』(近藤出版社)
藤木久志『戦国の村を行く』(朝日選書)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;
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コトバの辞典;
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スキル事典;
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