岡田一男・加藤寛編『宮本武蔵のすべて』を読む。
本書は,
宮本武蔵とその時代,
五輪書について,
二天一流と武蔵の剣技,
宮本武蔵の書画,
映像のなかの宮本武蔵,
小説に描かれた武蔵,
武蔵の家系と年譜,
宮本武蔵の全試合,
に分けて,分筆されているものである。これで「すべて」なのかどうかはいささか疑問である。今も残る,古流派の人に,剣術(剣道ではない)の基本的技術について,詳述する箇所が抜けているのが気になるが,それでも,本書の中で,
武蔵の家系と年譜,
という経歴部分をのぞくと,読むに堪えうるのは,僅かに,
武蔵の家系と年譜,
のみである。書いているのは,剣道家である。しかし,謙虚に書かれている分,説得力はある。結局,失礼ながら,人を語れば,その語る人そのものの器量がわかる。西郷について,
「釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。ただ、その鐘をつく撞木が小さかったのが残念で」
と語った龍馬の言は,すべての人物評に当てはまる。
「浮足立つ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463499097.html)で触れたように,剣道では,
「現代剣道の足運びは、主に右足を前に出して踏み込み、引き、防ぎます。後ろ足はつま先立ってます。踏み換えて稽古することはまずありません。却って滑稽に見えるかも知れません。」
という。しかし,宮本武蔵は,全く反対のことをいう。
「足の運びは,つま先を少し浮かせて,かかとを強く踏むようにする。足使いは場合によって大小遅速の違いはあるが,自然に歩むようにする。とび足,浮き足,固く踏みつける足,はいずれも嫌う足である。」
この違いは決定的である。
有名な武蔵像の,二剣を下げた姿勢は,ある意味武蔵の剣の姿勢そのものを象徴的に表しているといっていい。
「惣而兵法の身におゐて,常の身を兵法の身となし,兵法の身をつねの身とする事肝要なり」
とある通りである。ただ,この常の身とあるのは,
兵法の身をつねの身とする,
ところを前提にしているのだが,
足におゐて替わる事なし,常の道を歩むが如し,
とする。この歩むが,どういう歩みだったのかが問題になる。
ぼくは本書を読んで,改めて,剣術と剣道とは別物ということを改めて感じさせられた。古武術研究家の甲野善紀氏が言いだした,
ナンバ(走り),
に代表されるように,かつて日本人は,いまのような走り方,歩き方ではなく,
右手と右脚、左手と左脚を同時に出す,
足さばきである,とする説がある。この説の是非はともかく,少なくとも,武蔵は,
爪先立つ,
ことを嫌い,
爪先を少し浮かせて,かかとを強く踏むこと,
を強調した。素人だが,「多敵のくらい」において,
両刀を抜いて,左右に広く,太刀を横に広げて構える,
という太刀捌きは,ナンバの足さばきでこそ,生きるという気がしてならない。
(鈴木春信の浮世絵。手足の関係に注目 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90_(%E6%AD%A9%E8%A1%8C%E6%B3%95)より)
参考文献;
岡田一男・加藤寛編『宮本武蔵のすべて』(新人物往来社)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95