奇跡
G・ヤノーホ『カフカとの対話』を読む。
この本は,奇跡のように思える。当時17歳だった青年が,父親の労働者障害保健局の同僚だったカフカにあったのは,カフカの死の四年前,僅か二年ちょっとの期間である。しかしもただそれだけではこの本はなり立たない。17歳ながら,ちょっと文学の才気のある青年であったこと,カフカが彼をいつくしみ,真正面から応答していること,そしてなにより彼自身が抜群の記憶力と,記録癖があったことがなければ,成り立たない。しかも,この本が上梓されるにも,数々の苦難を経て,ほとんど諦める程の状況にあった。この本が出版されたこと自体もまた,奇跡であった。
著者は,第二次大戦と戦後の動乱のチェコスロバキアで,しかし,何とかこの本を上梓はすることが出来た。それにわれわれは感謝しなくてはならない。カフカの肉声が,しかも若い後輩との真摯な会話の中に,写し出されているのである。
カフカの遺構を出版したマックス・ブロートと,カフカ晩年を支えたドーラ・ディマントも,この対話を讀むと,
「フランツ・カフカが目の前にいて話しているような印象を受ける」
と語っているように,その体験を文字に写した著者の筆力のたまものでもある。ブロートは,さらに,初めて手記を見た時の印象を,
「あの手記は,私の忘れ難い友の本質的な相貌を―一部私の知らなかった委細をも含めて―感動的に甦らせてくれました」
と書き,その上梓に尽力する。
著者は,「日本語版によせて」で,こう書いている。
「私は今日,私に対する運命の厚意というものを自覚しています。私は困難な青春の暗澹たる一時期に,フランツ・カフカの知遇を得たのであり,私がただ一人で―よきにつけ悪しきにつけ―この時代のなかをよろめきつづけて来たそのすべての年月を通じて,彼の善意と生への献身とを私の伴侶としてきたし,単なる意志の力で我がものとすることの叶うものでもない。フランツ・カフカの言葉は,私にとって,時代の混乱を切りぬけるよすがでもあり,困難きわまる状況にあって私の力となる,友愛の手でありました。私はだから,この私のカフカとの対話を文学とはみなさない。それは信仰告白であり,内なる光の遺産であり,はたすべき課題なのです」
17歳の青年が,晩年のカフカと遭遇した奇跡は,彼自身にとっても巨大な財産であったようである。記録をうしない,ほぼ出版を諦めた時も,恐らく彼を支えたものはカフカとの体験であった。カフカは,彼の両親の離婚をめぐる難局で,彼に,
「忍耐は,すべての状況に対する特効薬です。われわれは,すべてのものと共振し,すべてに身を捧げ,しかも落着いて忍耐強くなければなりません。(中略)曲げたり,折ったりということはあり得ない。自己克服に始まる,克服という行為があるのみです。これは避けるわけにはいかない。この道を逃れるならば,必ず破滅が待っています。忍耐強くすべてを受入れ,成長しなければなりません。不安な自我の限界は,愛によってのみ打ち破られる。私たちの足もとにかさこそ音をたてる枯葉の向こうに,すでに若い新鮮な春の緑を見,そして忍耐し,待たねばなりません。忍耐こそ,すべての夢を実現させる真の,唯一の基盤です」
と語る。この真摯な語りかけを書き残されたこともまた奇跡である。彼自身は,この言葉を,こう受けとめたのである。
「これが,ドクトル・カフカが私に撓まぬ思いやりをもって植付けようとした,彼の生活信条であった。そしてその信条の正しさを彼は私に,あらゆる言葉,あらゆる手振り,あらゆる微笑とその大きな眼の輝き,そして労働者傷害保険局における永年の勤務によって確信させたのである。」
その後の父親の自殺,カフカの死,第二次大戦後の未決監への無実の収監という難局の中でも,その遺産は生きつづけたのだろう。それにしても思う。若くして,巨大な精神と遭遇することは,彼の人生にどんな巨大な翳を落したものか,と。
彼にとっては,カフカは,
「私という人間の掛替えのない本質を庇護する防壁なのである。彼は,その善意と思いやりと気取りのない誠意をもって,氷に閉ざされた私の自我の展開を促し,見守ってくれた当の人である」
という。だから,
「死後出版された作品」
を知らないし,読まないのである。
「わたしには,作家フランツ・カフカの小説や日記を読むことはできない。彼が私に疎遠であるためではない。彼があまりにも身近に思えるからである。青春の混迷とそれに続く内的外的な苦難,経験によって余すところなく打砕かれた幸福の観念,突然に襲い来った公権剥奪とそのため日増しに増大する内的外的の孤独化,こうした私の灰色の,心労と不安に破れ果てた日常そのものが,私を,忍耐と苦悩の人ドクトル・フランツ・カフカに固く結びつけていた。彼は私にとっては文学現象などというものではなかったし,今もその事情は変わらない」
フランツ・カフカを直に知り,頻繁に語り,その語り,振舞いに接してきた彼にとって,
「彼の書物より偉大」
な影響を,しみとおるように受けとったのである。彼は,ただ書く。
「わたしにはフランツ・カフカの書物を読むことはできない。彼の死後はじめて出版された遺稿を学ぶことに依って,私の内部に響いているその人となりの魅惑の余韻が弱まり,疎遠となり,ことによると失われてしまうことを怖れるからである。(中略)遺稿を讀むことによって,私のドクトル・カフカに対して取返しのつかない距離が生じはしまいか,私はそれを怖れるのである。何故なら,…フランツ・カフカは私にとって,抽象的で超個人的な文学現象ではないからである」
彼のカフカ像は,
「『変身』『死刑宣告』『村医者』『流刑地』,そして―私の知っている『ミレナ―への手紙』の作家は,すべて生けるものに対する首尾一貫した倫理的責任の告知者であり,プラーハの労働者傷害保険局の勤務に縛られた一役人の,一見平凡な役所生活において,最も偉大なユダヤの預言者たちの地上を蔽いつくす底の神と真実への憧憬とも紛う,あくなき灼熱の焰を降らせた一人の人間なのである。」
あるいは,彼は,わずか二年の間に,この世得るべきすべてを得てしまったのかもしれない。それもまた,奇跡に等しい。
参考文献;
G・ヤノーホ『カフカとの対話』(筑摩書房)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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