2019年05月02日

奥行


古井由吉『この道』を読む。

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好きな作家の近作である。八十路を超えてなお,この旺盛な筆力はただ事ではない。二歳年長の健三郎は新作を書かなくなって久しいのに比べると,その筆力は際立つ。

古井由吉については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/423068214.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/395877879.html

で近作については触れたが,その作品構造については,

http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm#%E8%AA%9E%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96

で分析したことがある。その特徴は,文体そのものが,皺のように,いくつもの現代過去未来が重なった言葉の奥行,

と,

作品そのものの語りの構造が,次々と入子のように次元を重ねていく作品世界の奥行,

と,二つの奥行にある,と思っている。

二つがこの作品集も僅かに残っている。処女作『木曜日に』で,

「私」は、宿の人々への礼状を書きあぐねていたある夜更け、「私の眼に何かがありありと見えてきた」ものを現前化する。

 それは木目だった。山の風雨に曝されて灰色になった板戸の木目だった。私はその戸をいましがた、まだ朝日の届かない森の中で閉じたところだった。そして、なぜかそれをまじまじと眺めている。と、木目が動きはじめた。木質の中に固く封じこめられて、もう生命のなごりもない乾からびた節の中から、奇妙なリズムにのって、ふくよかな木目がつぎつぎと生まれてくる。数かぎりない同心円が若々しくひしめきあって輪をひろげ、やがて成長しきると、うっとりと身をくねらせて板戸の表面を流れ、見つめる私の目を眠気の中に誘いこんだ。

厳密に言うと、木目を見ていたのは、手紙を書きあぐねている〃とき〃の「私」ではなく、森の山小屋にいた〃そのとき〃〃そこ〃にいた「私」であり、その「私」が見ていたものを「私」が語っている。つまり、

 ①「私」について語っている〃いま〃
 ②「私」が礼状を書きあぐねていた夜更けの〃とき〃
 ③山小屋の中で木目を見ていた〃とき〃
 ④木目になって感じている〃とき〃

の四層が語られている。しかし、木目を見ていた〃とき〃に立つうちに、それを見ていたはずの「私」が背後に隠れ、「私」は木目そのものの中に入り込み、木目そのもののに〃成って〃、木目が語っているように「うっとり」と語る。見ていたはずの「私」は、木目と浸透しあっている。動き出した木目の感覚に共感して、「私」自身の体感が「うっとり」と誘い出され、その体感でまた木目の体感を感じ取っている。

こういう時間の折り畳まれた文章は,この作品集にはない。もう一つの作品構造の入子も,この作品集には,「たなごころ」にしか見られなくなっている。

僕は文体の,いくつもの次元を折り畳んだような複雑な語りもいいが,この作家の最大の特色は,語りの次元が次々と入れ替わり,入子のように複雑に語りの空間を折り重ねていく,語りの奥行が好きだ。それは,「哀原」で,典型的に見られた。

 語り手の「私」は、死期の近い友人が七日間転がり込んでいた女性から、その間の友人について話を聞く。その女性の語りの中に、語りの〃とき〃が二重に入子となっている。

 一つは、友人(文中では「彼」)と一緒にいた〃とき〃についての女性の語り。

 お前、死んではいなかったんだな、こんなところで暮らしていたのか、俺は十何年間苦しみにくるしんだぞ、と彼は彼女の肩を掴んで泣き出した。実際にもう一人の女がすっと入って来たような、そんな戦慄が部屋中にみなぎった。彼女は十幾つも年上の男の広い背中を夢中でさすりながら、この人は狂っている、と底なしの不安の中へ吸いこまれかけたが、狂って来たからにはあたしのものだ、とはじめて湧き上がってきた独占欲に支えられた。

 これを語る女性の語りの向う側に、彼女が「私」に語っていた〃とき〃ではなく、その語りの中の〃とき〃が現前する。「私」の視線は〃そこ〃まで届いている。「私」がいるのは、彼女の話を聞いている〃そのとき〃でしかないのに、「私」は、その話の語り手となって、友人が彼女のアパートにやってきた〃そのとき〃に滑り込み、彼女の視線になって、彼女のパースペクティブで、〃そのとき〃を現前させている。「私」の語りのパースペクティブは、彼女の視点で見る〃そのとき〃を入子にしている。

 もう一つは、女性の語りの中で、男が女性に語ったもうひとつの語り。

 或る日、兄は妹をいきなり川へ突き落とした。妹はさすがに恨めしげな目で兄を見つめた。しかしやはり声は立てず、すこしもがけば岸に届くのに、立てば胸ぐらいの深さなのに、流れに仰向けに身をゆだねたまま、なにやらぶつぶつ唇を動かす顔がやがて波に浮き沈みしはじめた。兄は仰天して岸を二、三間も走り、足場の良いところへ先回りして、流れてくる身体を引っぱりあげた。

 と、そこは、「私」のいる場所でも、女性が友人に耳を傾けていた場所でもない。まして「私」が女性のパースペクティブの中へ滑り込んで、その眼差しに添って語っているのでもない。彼女に語った友人の追憶話の中の〃そのとき〃を現前させ、友人の視線に沿って眺め、友人に〃成って〃、その感情に即して妹を見ているのである。

 時間の層としてみれば、「私」の語る〃とき〃、彼女の話を聞いている〃とき〃、彼女が友人の話を聞いている〃とき〃、更に友人が妹を川へ突き落とした〃とき〃が、一瞬の中に現前していることになる。

 また、語りの構造から見ると、「私」の語りのパースペクティブの中に、女性の語りがあり、その中に、更に友人の語りがあり、その中にさらに友人の過去が入子になっている、ということになる。しかも「私」は、女性のいた〃そのとき〃に立ち会い、友人の追憶に寄り添って、「友人」のいた〃そのとき〃をも見ている。〃そのとき〃「私」は、女性のいるそこにも、友人の語りのそこにもいない。「私」は、眼差しそのものになって、重層化した入子のパースペクティブ全てを貫いている。

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いってみれば,語り手は,C,B,Aのそれぞれの語りの時間を,自在に行き来言する。この「哀原」を彷彿とさせたのが,「たなごころ」であった。

 あの石を,とうとう拾って来なかったな,と病人は悔やむように言った。

とはじまる文章は,語り手は病人の譫言を聴いていたはずである。しかし,いつの間にか,その病人自身になって(いるかのように),

 さきのほうを行く人の姿が樹間に遠くなったり近くなったりする。

と,山を登る若者の視点に移り,

 ひとりになった。老人の腰をおろしていた石の上をあらためて眺めると,左の脇のほうに,掌の内におさまるほどの小石がある。そこに置かれたように見えた。黒く脂光りするまるい石だった。手に取れば温みが残っている。(中略)
この日のささやかな記念に持って帰ろうかと考えたが,間違いもあることだろうからと思いなおして,石を元のところにそっともどし,腹もまだすいていないので,もうひとつ先の峠を目あてに,尾根づたいの道を取ることにした。

と,冒頭の取ってこなかった「石」の話で締めくくる。かつてのような意識的な視点の移動というよりは,その思いを代弁しているような軽みがある。作品集全体に,語られているのが,死や病でありながら,どこか軽みがあるのも,同じかも知れない。どちらかというと,かつての文体の方が好きなのだが。

参考文献;
古井由吉『この道』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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posted by Toshi at 03:53| Comment(0) | カテゴリ無し | 更新情報をチェックする
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