なし


「なし」は,

無し,

と当てるが,

亡し,

とも当てる。「無」(呉音ム,漢音ブ)の字は,

「形声。原字は,人が両手に飾りを持って舞うさまで,のちの舞(ブ・ム)の原字。無は『亡(ない)+音符舞の略体』。古典では无の字で無をあらわすことが多く,今の中国でも簡体字でも无を用いる」

とある(漢字源)。「无」(呉音ム,漢音ブ)の字は,

「会意。『一+大(人)』で,人の頭の上に一印をつけ,頭を見えなくすることを示す。無の字の古文異体字。元の字の変形だという説があるが,それはとらない」

とある(仝上)。「亡」(漢音ボウ,呉音モウ)の字は,

「会意。乚印(囲い)で隠すさまを示すもので,あったものが姿を隠す,見えなくなるの意を含む。忘(心の中からなくなる→わすれる),芒(ボウ 見えにくい穂先)・茫(ボウ 見えない)等々に含まれる」

とある(仝上)。「無」「无」は「ない」という意なのに対し,「亡」は,あったものが姿を消す,意である。三者の違いは,

「無」は,有の反。論語に「天下有道則見,無道則隠」とあるが如し。又禁止の辞にも用ふ,なかれと訓す。
「亡」は,存の反。なくなったと訳す。論語に「不幸短命死矣,今也則亡」とある如し。一に兦(ボウ)に作る,
「无」は,無に同じ,

とある(字源)。その他,同義の字についても,

「莫」(漢音バク,呉音マク)は,勿也。不可也と註し,又定也とも註すれば,確と決定して無しという義にて,意強し。
「勿」(漢音ブツ,呉音モチ)は,そうはするなと禁ずる辞にて,義最も重し,

とある。

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(殷・甲骨文字・「無」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%84%A1より)


和語「なし」は,

「不存在をあらわす。有の対」

とあり(岩波古語辞典),

「存在をいうには出生の意に関係のあるアリという動詞を使うに対し,不存在にはク活用形容詞ナシを使う。ク活用形容詞は事物の状態を静止的に時間によって動くことのないものとしてとらえる性質があるによる」

とあり,動詞ではなく,形容詞として捉えていることになる。そして,

「上代語では,現代語の人の在・不在をいう『いる』『いない』に対し,『あり』『なし』を使う」

ともある(仝上)。ただ,「なし」の由来については言及がない。

大言海は,「なし」を,

「莫(な)の活用」

とする。「な」には,

莫,
勿,

を当てる。

動作を禁じ止むる語,

である。存在の有無ではなく,動作の有無を指しているというのは,和語らしいと思えてくる。

日本語源広辞典は,

「ムナシ(空し)からム音脱落のナシ(無し)」

とする。

「むらしい」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465577509.html)で触れたように,和語「むなし(い)」は,

「空(ムナ)の活用,實無し,の義」

とある(大言海)。「むな(空)」は,

「實無(むな)の義」

とある(仝上)。

「膐(膂)完之空國(むなくに)」

という用例がある(神代紀),とか。だから,

実がない→空っぽ→何もない→むなしい→はかない,

と,「から(空)」という状態表現が,転じて価値表現へと意味を変化した,とみることができる。ということは,「なし」という言葉が存在していることを前提にしないとこの説は成り立たない。

むなしい→なし,

は成り立たない。やはり,「~するな」という動作の禁止,という由来が,和語らしいと思えるのだが。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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