「たなばた」は,
七夕,
棚機,
と当てる(広辞苑)。「七夕」は,五節句,
人日(じんじつ)(正月7日),
上巳(じょうし)(3月3日),
端午(たんご)(5月5日),
七夕(しちせき)(7月7日),
重陽(ちょうよう)(9月9日),
の一つ,
七夕(しちせき)(7月7日),
の意である。「節」は,
「唐時代の中国の暦法で定められた季節の変わり目のことです。暦の中で奇数の重なる日を取り出して(奇数(陽)が重なると 陰になるとして、それを避けるための避邪〔ひじゃ〕の行事が行われたことから)、季節の旬の植物から生命力をもらい邪気を祓うという目的から始まりました。この中国の暦法と、日本の農耕を行う人々の風習が合わさり、定められた日に宮中で邪気を祓う宴会が催されるようになり『節句』といわれるようになった」
とある(日本文化いろは事典)。「五節句」の制度は明治6年に廃止された。
「棚機」とは,
棚すなわち横板のついた織機,
の意(広辞苑)で,また,
たなばたつめ(棚機津女),
の略でもある。「棚機津女(たなばたつめ)」とは,
はたを織る女,
の意だが,万葉集に,
我が爲と織女(たなばたつめ)のその屋戸に織る白布(たへ)は織りてけむかも,
棚機の五百機立て織る布の秋去り布誰れか取り見む,
という織女(たなばたつめ)の意の他に,既に,万葉集に,
牽牛(ひこぼし)は織女(たなばたつめ)と今宵遭ふ天の河戸に波たつなゆめ,
と,棚機津女と織女とつなげた歌がある。しかし「棚機津女」の由来ははっきりしない。たとえば,
「棚機津女として選ばれた女性は7月6日に水辺の機屋(はたや)に入り、機を織りながら神の訪れを待ちます。そのとき織り上がった織物は神が着る衣であり、その夜、女性は神の妻となって身ごもり女性自身も神になります。」
等々(https://matome.naver.jp/odai/2143995744843228801)に類似した説明がなされるが,これでは何のことかわからない。正確には,どうやら,
「古来盆と暮れの二期をもって“魂迎え”の時期と信じ,この時期に海または山の彼方から来臨する常世の神ないし祖霊を迎えるべく,村はずれの海や川,湖沼の入りこんだようなところの水辺にさしかけ造りにした,古く棚と呼ばれた祭壇を設け,そこで神の衣を機織る神の嫁としてのおとめが,『棚機津女』と呼ばれた“水の女”たちなのであった」
ということらしい(日本伝奇伝説大辞典)。日本語源大辞典には,
「『たな』は水の上にかけだした棚の意とする説が有力。折口信夫は『たなばた供養』の中で,『古代には,遠来のまれびと神を迎へ申すとて,海岸に棚作りして,特に択ばれた処女が,機を織り乍ら待って居るのが,祭りに先立つ儀礼だったのである。此風広くまた久しく行はれた後,殆,忘れはてたであらうが,長い習慣のなごりは,伝説となって残って行った。其が,外来の七夕の星神の信仰と結びついたのである』と述べ,『古事記』に見える『おとたちばな』にそのなごりを認めている」
とある。この「棚機津女」は,今日の「七夕」との関係は直接にはない。今日の「七夕」は,
「中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95)
「七夕の行事は、中国から伝来し奈良時代に広まった『牽牛星(けんぎゅうせい)』と『織女星( しょくじょ)』の伝説と,手芸や芸能の上達を祈願する中国の習俗『乞巧奠(きつこうでん)』が結び付けられ,日本固有の行事になった」(語源由来辞典)
とある。
織女と牽牛の伝説は,まず,
「『文選』の中の漢の時代に編纂された『古詩十九首』が文献として初出とされている」(仝上)
が,7月7日との関わりは明らかではないとされる。古詩十九首とは,
古詩十九首之十、迢迢牽牛星(無名氏),
で,
迢迢牽牛星 皎皎河漢女
繊繊擢素手 札札弄機杼
終日不成章 泣涕零如雨
河漢清且浅 相去復幾許
盈盈一水間 脈脈不得語
とある(https://syulan.hatenadiary.org/entry/20070707/p1),
盈盈として一水が間(へだ)てれば,脈脈として語るを得ず,
と両者が河を挟んで離れているというだけのことしかない。次いで,
「『西京雑記』には、前漢の采女が七月七日に七針に糸を通すという乞巧奠の風習」
が記されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95#cite_note-2)。
「乞巧奠(きこうでん)」は,「きっこうでん」ともいい,
「中国における七夕行事。乞巧とは牽牛・織女の2星に裁縫技芸の上達を祈り,奠とは物を供えて祭る意。唐代では飾りたてた櫓(やぐら)を庭に立て乞巧楼といった」
とある(百科事典マイペディア),七夕祭の原型である。そして,隋の統一前の,
「南北朝時代(439~589年)の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠(きこうでん)と織女・牽牛伝説が関連づけられている」
とある(仝上)。ここで,乞巧奠(きこうでん)と織女・牽牛伝説がつながる。現在の七夕説話の原型は,
「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)
であり,六朝・梁代(502~557年)の殷芸(いんうん)の『小説』である(仝上)。これが中国から伝わり,棚機(たなばた)津女の信仰と結合して,女子が機織(はたおり)など手芸上達を願う祭になった,とされる。
「持統(じとう)天皇(在位686~697)のころから行われたことは明らかである。平安時代には、宮中をはじめ貴族の家でも行われた。宮中では清涼殿の庭に机を置き、灯明を立てて供物を供え、終夜香をたき、天皇は庭の倚子(いし)に出御し、二星会合を祈ったという。貴族の邸(やしき)では、二星会合と裁縫や詩歌、染織など、技芸が巧みになるようにとの願いを梶(かじ)の葉に書きとどめたことなども『平家物語』にみえる」
ともある(日本大百科全書)。しかし,
「『万葉集』では大伴一族などこの日の晩酒宴を催し,天の川を挟んで輝く夫婦星を眺めながら和歌を詠み合い,また平安期では清少納言も,『七月七日は,曇りくらして,夕方は晴れたる空に,月いと明く星の数も見えたる』と『枕草子』に書きしるしている。これら万葉びとや,王朝貴族たちの七夕祭りは,中国伝来の『乞巧奠』(裁縫や染色などの手わざを巧といい,その上達を祈る祭り)という星祭りの伝説に倣うものであった」
とある(日本伝奇伝説大辞典)。この段階では,ただ輸入した「乞巧奠」を真似ていただけになる。一方,
「民間における七夕の祭りは,中国式の七夕伝説とは異なり,必ずしも星祭とか,手わざを祈るばかりの行事ではなかった」
という(仝上)。
たなばた雨,
という言葉が残り,
「わらでつくった『七夕人形』や,あるいは七夕竹を立て,提灯を吊るし,注連縄を張った飾り物を乗せた『七夕舟』を歌を海に流す,それも前日の夜に立てて,七日の早朝に流す」
などと(仝上)いうように,
「わが国本来のたなばた祭りとは,夏と秋との季節の行き合う時期に行なわれる季節祭りなのであり,(中略)夏が終わって秋が始まろうとする季節の交差期に,禊をして身に付いた罪穢れを洗い流して新しい生活に入ろうとする信仰にもとづいており,(中略)ことに七夕の場合は盆という大きな祖霊祭を控えての,重要な禊ぎ祓えの行事でもあった。それも上弦の月の出る七日の夕べは,望月十五夜の祖霊祭の行なわれる潔斎の最初の日でもあったわけである」。
「たなばた」が,
「七月七日の夜を意味する『七夕』の字をもって“たなばた”としたのは,我が国固有の『棚機津女』の信仰に基づくものであった」
と(仝上),「棚機津女」の流れとつながっていることは明らかである。
日本語源広辞典は,「たなばた」の語源を三説にまとめる。
説1は,「田+な+端」。水田付近での,水祭り,盆の精霊送りの意,
説2は,折口信夫の,海岸に「神を迎える棚を作って,特に選ばれた処女が機を織って待った」民俗伝承起源,
説3は,「苗代の種播(タネバタ)」説,
やはり,古さから言っても,季節の交差期の禊と祓いからいっても,折口信夫説が説得力がある。
(歌川広重・市中繁栄七夕祭(名所江戸百景) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95#cite_note-2より)
「七夕」の行事は,
「『夜明けの晩』(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。」
とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95)。この神事は,「棚機」より「乞巧奠(きこうでん)」の流れが強いように思える。村々で行われていた「棚機」よりは,「乞巧奠(きこうでん)」の物真似が土着化した,といったほうがいいのかもしれない。言葉だけ,「棚機」の「たなばた」を,「七夕」に当てたように見える。
ともかく,今日のような七夕祭になったのは江戸時代である。短冊に願い事を書き笹に飾る風習は,
「夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。」
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95#cite_note-2)し,
「手習いごとをする人や、寺子屋で学ぶ子が増えたことから、星に上達を願うようになったのです。本来はサトイモの葉に溜まった夜露を集めて墨をすり、その墨で文字を綴って手習い事の上達を願います。サトイモの葉は神からさずかった天の水を受ける傘の役目をしていたと考えられているため、その水で墨をすると文字も上達するといわれているからです」
ともある(http://www.i-nekko.jp/nenchugyoji/gosekku/tanabata/)。笹を使うのは,
「笹竹には、神迎えや依りついた災厄を水に流す役目」
があった(http://www.i-nekko.jp/nenchugyoji/gosekku/tanabata/)し,
「笹には冬場でも青々としている事から生命力が高く邪気を払う植物として向かしから大事にされてきました。 また虫などをよける効果もあり、当時の稲作のときには笹をつかて虫除けをしていたこと」
も関わる(http://www.iwaiseika.com/column/77.html)とみられる。ここには,土俗の「棚機」の習性が引き継がれている。
なお,江戸時代には,
七夕客,
とたまにしか来ない客を,遊里で揶揄した言葉がある程「七夕」が一般化したが,この使い方はもともとの話に近いと見られる。
「中国の漢詩文では,女性が男性のもとに『嫁入り』する婚姻形態を反映して,織女が天の川を渡って牽牛に合いに行くのが一般的であった。しかし古代日本では,男性が女性のもとに通う形が一般的であったため,『万葉集』の七夕を題材にした歌には,渡河の主体を中国の伝統にならって織女とするものと,日本の習俗にひかれて牽牛とするものとが混在している。牽牛(彦星)が渡河し,織女がその訪れを待つという日本的な逢瀬の形に定着するのは中古にはいってからである」
という(日本語源大辞典)。
参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95