2019年08月22日

帰農した土豪


牧原成征『近世の土地制度と在地社会』を読む。

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本書は,

「近世の百姓たちは,いかなる社会構造や諸条件の中で,それらにいかに規定されて,どのように再生産や生活を成り立たせていたのだろうか。本書はこうした素朴な問題関心から出発しているが,土地制度や金融・流通,共同体などの観点から,近世の在地社会について」

の考察をしている。その主張の素描は,

「中世後期,(中略)多くの土地片で,地主と作人が分離して,前者が後者から加地子(カジコ,カジシ 地代)を収取する関係が一般化していたと考えてよい」

「地主権(加地子)や名主得分を集積した階層は,(中略)抗争・戦乱の中でその土地所有を維持・拡大するために,被官を従え,戦国大名などのもとに被官化(結集)した。これは戦国社会の基底的な動向であり,彼らを『小領主』と呼ぶことができる」

「16世紀の江北地域では,戦国争乱が激化し小領主が滅亡したり牢人したりするなかで,彼らのもとで制約されていた作人の土地に対する権利が強まった(一職売券の出現)。それによって土地を家産として継承するイエが,作人レベルにおいて成立しはじめた」

「江北の一大名から出発・成長した豊臣政権は,領主(給人)が収穫高の三分の二を年貢として収取するという理念を示し,また検地を広範囲に行なって地積掌握を深化し,加地子を吸収した高額の年貢・分米を打ち出した。村にとどまった旧小領主(地主)は百姓身分とされ,それまで得ていた中間得分・剰余をかなりのていど否定された。加地子得分権の形で留保されていた惣有財産も同様である。こうした点では領主『反動』と評価することもできる。しかし一方で,年貢収取に際して,百姓に収穫高の三分の一の作得を公認・保障し,…江北でようやく16世紀に萌芽・展開しつつあった作人レベルにおける土地所持権を,検地の結果,公認・保障する姿勢を示した」

「そのようにして成立した近世の年貢村請制の下では,農業経営の集約化という生産力条件にもよって,村=百姓たちは,一定数以上の経営を維持することを要求された。そのため百姓相互の融通関係が必然化され,そのなかから土地を集積する地主が出現する場合があった。彼らは村請制と小農経営の展開に基礎をおき,それに規定される点で『村方地主』という範疇で捉えるのが適当である」

等々と,在地の土地制度と社会の変化を描こうとしている。

僕個人の関心は,土豪,地侍という在地の有力層が,国人や戦国大名の被官となった後,豊臣政権の政策で,徳川家康が,三河・遠江から関東へ家臣まるごと移封されたように,被官化した土豪・地侍が,鉢植えのように転封される大名に従わず,在地に残った場合,その後,幕藩体制下で,どのような変化を蒙ったのか,という点にある。いわゆる兵農分離に従わず,在地に残った旧大名被官たちは,百姓身分になるが,村ないし,その地域に大きな影響力を保っていたはずである。

そのひとつの転機は,太閤検地である。検地では,

「一筆ごとに年貢を負担すべき責任者,請負人(百姓)を一名書き載せる」

が,

「あらゆる土地片で唯一単独の所持者・所持権が定まっていたわけではなく,太閤検地開始時にも依然として,地主と作人とが加地子収得関係などを結んでいた土地片もあった。そうした地主・作人関係は,作人から得分を収取するだけで年貢も作人が直納するといった作人の権利が強いケースから,一年季契約による小作関係のように地主の権利が強いケースまで,非常に個別的で多様であった。前者では作人が名請されるのが自然であるが,後者(一年季小作)の場合,地主がその土地を名請しようと望めば,小作人が容易に名請しえたとは考えにくい。この点で,直接耕作者を一律に名請したとする見解には無理がある。ただし,侍身分の地主たちがみずから名請しようとしたかどうかは問題である。検地で名請することは百姓になることを意味するのだから,あくまで仕官をめざし,名請しようという志向をもたないか,あるいは名請を拒む者もいた」

その結果,

「検地帳に名請した者には,年貢諸役負担と引き換えに,その土地の所持権が保障・公認されることになった」

石田三成の掟条条(文禄五(1596)年)には,

「田畠さくしきの儀は,此のさき御検地の時,けんち帳にかきのり候者のさハきにつかまつり,人にとられ候事も,又むかし我さくしきとて人のとり申事も,ちやうしの事」

とあり,土地の実質所有が移ることになる。その結果,かつての土豪の中には,土地を取り戻そうとし,敗訴する例も少なくなかった。

「検地帳名請の意義は大きく,被官たちのなかには,井戸村氏(旧土豪)が土地所持権を確認しようと迫った際にも拒否する者もむ現れた。訴訟の際にも,名請と代々の所有を根拠にしとて自己の所持権を主張し,それを勝ち取ることもあった」

のである。公儀レベルの理念としては,

「検地帳名請人に所持権を認めるのが原則であった」

からである。結果として,

小農自立,

がもたらされたが,その結果,「高持百姓」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.html)で触れたように,

「近世の土地台帳である検地帳や名寄帳,あるいは免割帳などに記載された高持百姓あるいは本百姓のち所持石高や田畑の反別が一石未満,また一反未満を中心に零細な百姓が圧倒的に多い」

こととなり,一年の決算毎に質屋を利用して,

「不勝手之百姓ハ例年質物ヲ置諸色廻仕候」

というように,それは,

「春には冬の衣類・家財を質に置いて借金をして稲や綿の植え付けをし,秋の収穫で補填して質からだし,年貢納入やその他の不足分や生活費用の補填は再度夏の衣類から,種籾まで質に入れて年越しをして,また春になればその逆をするという状態にあった」

ことの反映で,

「零細小高持百姓の経営は危機的であった」

近世慢性的に飢饉が頻発した背景が窺い知れるのある。

五反百姓出ず入らず,

という諺がある(臼田甚五郎監修・ことわざ辞典)。五反でトントンの意である。それ以下は,危険水域なのである。

近世の飢饉については,

「飢饉」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html),

で触れた。

参考文献;
牧原成征『近世の土地制度と在地社会』(東京大学出版会)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:55| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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