2019年08月27日

いなりずし


「いなりずし」は,

稲荷鮨,
稲荷寿司,

と当てる。

しのだずし,
きつねずし,

とも言う。「いなりずし」の発案は,天保四年の天保の飢饉の後,天保七,八年(1836,7)と飢饉があった,その頃,

「名古屋で油揚げの中に鮨飯を詰める稲荷鮨が考えた」

とある(たべもの語源辞典)。異説では,

「愛知県豊川市にある豊川稲荷の門前町で、天保の大飢饉の頃に考え出された」

といわれる(由来・語源辞典)。ただ,

「1836(天保7)年の天保の大飢饉の直後に幕府から『倹約令』が出て、当時流行っていた握り寿司などを禁止された時期がありました。その時、油揚げを甘辛く煮て、質素だけれどもおいしい『いなり鮓』(当時は「いなり“鮓”」と明記されていました)が広く食べられるようになったようです。…もっとも、当時は飢饉ですからお米ではなく、おからを詰めていたそうです」

ともある(https://www.gnavi.co.jp/dressing/article/21424/)。これで納得,飢饉に「いなりずし」が流行ったというのはちょっと違和感があった。「おから」というなら,一挙両得である。

いずれにしろ,これが嚆矢である。「いなり」は,

「稲荷神の使いである狐の好物に由来する。 古くから狐の好物は鼠の油揚げとされ、鼠を捕まえる時にも鼠の油揚げが使われた。そこから豆腐の油揚げが稲荷神に供えられるようになり、豆腐の油揚げが狐の好物になったとされる。その豆腐の油揚げを使う寿司なので、『稲荷寿司』や『狐寿司』と呼ばれるようになった」

とある(語源由来辞典)。しかし,

「ある人が実験として、動物園などで狐に油揚げを与えてみたところ、雑食性でなんでも食べるといわれる狐が、油揚げは食べなかった」

とあるので,油揚げの色を狐の毛皮の「きつね色」に見立てたということなのかもしれないhttps://www.gnavi.co.jp/dressing/article/21424/

江戸時代末期に書かれた『守貞謾稿』には,

「天保末年(1844年2月~1845年1月)、江戸にて油揚げ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸干瓢を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。(中略)なづけて稲荷鮨、或は篠田鮨といい、ともに狐に因ある名にて、野干(狐の異称)は油揚げを好む者故に名とす。最も賤価鮨なり」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%AF%BF%E5%8F%B8)。これが,

「天保の飢饉のときから始まって大流行をした。十軒店というのは江戸本石町二丁目で,この角に店を張った稲荷屋治郎右衛門は大繁盛だった。『いなりずしうまいと人を釣狐,わなに掛たる仕出し商人』という狂歌でわかるように各所に稲荷鮨を売る商人がいた」

のである(仝上)。

弘化二年(1845)の『稽古三味線』に,

「十軒店のしのだずし稲荷屋さんの呼声」

とある(たべもの語源辞典)。呼声とは,

天清浄地(てんしょうじょうち)清浄(しょうじょう) 六根清浄(ろっこんしょうじょう) 祓いたまへ清めたまへ
一本が十六文 ヘイヘイヘイ ありがたひ
半ぶんが八文 ヘイヘイヘイ ありがたい
一と切れが四文
サアサア あがれあがれうまふて大きい大きい大きい 稲荷さま稲荷さま稲荷さま,

というもの(仝上)。この呼声で,町々を振売りした。

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(1852年(嘉永5年)「近世商賈盡狂歌合」・「稲荷鮨・いなりずし」https://www.benricho.org/Unchiku/edo-syokunin/12-kinseiakinai/03.htmlより)


「天秤で屋台をかつぎ,狐の面を描いた旗をたて,小さな屋台の屋根の下に提灯を三つ並べてぶら下げ,それに,『稲,荷,鮨』と一字ずつ書いてある。俎板の上に庖丁と長い長い稲荷鮨を置いて切って売った。角行燈には『稲荷大明神さま』と書き,夜になると辻に立って,『お稲荷さん』とよんだ」

という(仝上)。

江戸の「いなりずし」は,太くて長くhttps://edo-g.com/blog/2017/03/fukagawaedo_museum.html/fukagawaedo_museum33_l,今日の巻鮨のようで,切り売りした。「いなりずし」は,わさび醤油を付けて食べた。「一と切れが四文」ということは,そば一杯でお稲荷さんが4個食べられるお値段である。『天言筆記』(明治成立)には,

「飯や豆腐ガラ(オカラ)などを詰めてワサビ醤油で食べるとあり、『はなはだ下直(げじき-値段が安いこと)』」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%AF%BF%E5%8F%B8)。

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因みに,「お稲荷さま」は,

「たべものいっさいを司る倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀ったもので,大宜都比売神(おおけつひめのかみ)・保食神(うけもちのかみ)・豊受毘売神(とようけひめのかみ)も同神といわれる。それがイナリとなったのは,『神代記』に『保食神腹中に稲生れり』とあるので,イネナリ(稲生り)がイナリとつまった。またイネカリ(稲刈)が転訛したともいう。あるいは稲をになった化人からとった名とか,イナニ(稲荷)から転じたともいう。伊奈利山に祀ったのでイナリと称するともいわれる。イナリ神とキツネは大宜都比売神のケツを『御尻(みけつ)』と称した。この『みけつ』を『三狐』と書いたり,大宜都比売神に『大狐姫』の漢字を当てたりする。それでキツネは稲荷神のお使い様とされた」

とある(たべもの語源辞典)。「うかのみたま」は,『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。

「『稲成り』の意味だったものが、稲を荷なう神像の姿から後に『稲荷』の字が当てられたとされる。もとは古代社会において、渡来民の秦氏から伝わった氏神的な稲荷信仰であり、秦氏の勢力拡大によって信仰も広まっていった。本来の『田の神』の祭場は狐塚(キツネを神として祀った塚・キツネの棲家の穴)だったと推測されるが、近世には京都の伏見稲荷を中心とする稲荷信仰が広まり、狐塚に稲荷が祀られるようになった。
五穀をつかさどる神・ウカノミタマと稲荷神が同一視されることから、伏見稲荷大社を含め、多くの稲荷神社ではウカノミタマを主祭神としている」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E)ので,「狐」が先である。やはり,キツネが主役のようである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:06| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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