2019年09月24日

関ヶ原の合戦


白峰旬『新視点関ヶ原合戦:天下分け目の戦いの通説を覆す』を読む。

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本著者の『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』(宮帯出版社)、『新「関ヶ原合戦」論―定説を履す史上最大の戦いの真実』(新人物ブックス)で展開された主張の補綴の役の本と見られる。従って、全体像よりは隙間を埋めるテーマが多いのは致し方ない。

主眼は、江戸時代の『慶長軍記』をはじめとする軍記物によって形成された、数々の家康目線で語られてきた伝承、さらにそれにのっとった参謀本部が編纂した『日本戦史 関ケ原役』の記述を、一次史料によって見直す作業である。

明治になって、『関原合戦図志』をあらわした神谷道一は、その緒言で、

「幕府ノ世ニ在リテハ人皆忌諱ニ觸レンコトヲ恐レ實記アリト雖モ秘シテ世ニ示サズ、今ヤ皇政開明復囁嚅ノ憂ナク正ニ是レ直筆ニ記載シ得ルノ日ナリ」

と記した。しかし、

「嘘も百回言えば、真実になる」

ではないが、

「一次史料による史料的根拠のない話が通説に化けた」

影響は大きく、

豊臣七将襲撃事件、
小山評定、
小早川秀秋への問鉄炮、

などが史実であるかのように思い込まされてきている。

本書では、著者の主著の補綴なので、一番の見どころは、第一章の、

豊臣七将襲撃事件はフィクションである、

が、読みごたえがある。七将については、

福島正則、池田照政、黒田長政、加藤清正、細川忠興、浅野長慶、加藤嘉明(関原始末記)、

福島正則、黒田長政、加藤清正、細川忠興、浅野長慶、加藤嘉明、脇坂安治(慶長年中卜斎記)、

福島正則、黒田長政、加藤清正、細川忠興、浅野長慶、蜂須賀家政、藤堂高虎(関原始末記)、

等々と異同はあるが、この七人が石田三成を襲撃・暗殺せんとしたとするものである。しかし、著者は、

「当時の人物が記した記録から三成襲撃事件をみた場合、襲撃・暗殺計画といった性格ではなく、七将が家康に三成の制裁(切腹)を訴えたもの」

と断定する。その意味で、三成が佐和山へ「隠居」あるいは「隠遁」と、関係資料で記されていることとつながる。それは、この騒動の責任をとって、

「中央政界から一時的に失脚したものの、問題の本質としては、佐和山に一時的に謹慎したにすぎないのであり、豊臣政権(豊臣公儀)の奉行職への復帰(政治的復権)の余地は十分のこしていた」

しかも、佐和山へ入るにあたって家康と三成は、相互に自分の子を人質としてとっている。この時点で、

「三成と家康は対等の関係であった」

のである。

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(関ヶ原合戦図屏風・関ケ原町歴史民俗資料館https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84より)


本書の特徴は、

「公儀」という言葉の使い方である。たとえば、関ケ原で勝利した家康は、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く。しかし、だからと言って、天下が定まったわけではない。著者は、

二重公儀論(笠原和比古)、

に依拠しつつ、

「家康は慶長八年(1603)に征夷大将軍に就任して、徳川公儀の主催者になったが、このことは、この時点で豊臣公儀が消滅したことを意味せず、豊臣公儀のスキームはそのまま継続した(秀頼は死去するまで点火人という位置づけは変わらなかった)」

とする。たとえば、まだ大阪の役の前,

「徳川氏の覇権確立以降において,九州の大名領主相互間の争いが秀頼に持込まれ,その裁定に片桐且元・黒田長政が当たっていることは,西国諸大名がなお徳川氏の権力外にあったことをしめしている」

とある(藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』)。このことは、

「幕藩体制の確立」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html?1568502090

で触れたが、このとき,この秀頼の権威は何に基づくのか。大阪の役後,徳川に移った権威は,何に基づくのかという視点抜きでは、これは理解できない。だからこそ、

家康は関ケ原合戦直後の時点で、前田利長宛ての手紙で、「すぐに(大阪城を)乗り掛けて攻め崩すべきであるが、(大阪城は)秀頼様の御座所であるので(大阪城攻めを)延期した」という趣旨のことを述べている。

「そもそも、なぜ徳川家康は、豊臣秀頼を改易できなかったのか、改易で済めば、わざわざ戦争(大坂の陣)をする必要はなかったははずである。現在の通説的見方では、大坂の陣は、徳川が主、豊臣が従という見方であるが、徳川と豊臣を対等の関係で見ないと、大坂の陣というのは政治的に正しく理解できない」

著者は言う。

「一方の公儀(徳川公儀)が他方の公儀(豊臣公儀)を改易することはできなかった」

のである。秀吉は、旧主君の子信雄は家臣であったから改易したが、家康は、改易できなかった。なぜなら、

「天下人として独裁者であった秀吉が後継指名した時点で次期天下人は(秀頼に)確定したのであって秀吉死去(慶長三年(1598))後は、即時に、豊臣公儀の主催者として天下人になったのである。独裁者であった秀吉が、独裁国家の後継者として実子の秀頼を指名した以上、(中略)諸大名はもちろん、豊臣政権下で当時、最大の大名であった家康でさえ、覆すことはできなかった。」

つまり、

徳川公儀と豊臣公儀の決戦、

で決着をつけるしかなかった、のである、とする。「公儀」という言い方は、

豊臣の体制対徳川の(幕藩)体制、

ということである。徳川政権にとって、豊臣家は、意のままに改易したり、移封したりできる相手ではなく、それ自体が、政治体制だという意味で、

公儀、

という言い方は、至当に思える。秀吉は、信長が本能寺で死んだ後も、信長を、「惟任退治記」や手紙で、

公儀、

と呼んでいたが、それは、織田体制という含意を持たせていたのもかもしれない。

参考文献;
白峰旬『新視点関ヶ原合戦:天下分け目の戦いの通説を覆す』(平凡社)
藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』(吉川弘文館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:28| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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