2019年10月18日

ガルゲン・フモール


大岡昇平他編『黒いユーモア(全集現代文学の発見第6巻)』を読む。

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本書は、

現代文学の発見,

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し,テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

黒いユーモア,

と題された「ユーモア」に関わる作品を収録している。収録されているのは、

内田百閒『朝の雨』
石川淳『曽呂利咄』
井伏鱒二『白毛』
飯沢匡『座頭H』『崑崙山の人々』
深沢七郎『楢山節考』
武田泰淳『第一のボタン』
富士正治『雑談屋』
織田作之助『世相』
安部公房『棒』
平林彪吉『鶏飼ひのコミュニスト』
尾崎翠『第七官界彷徨』
佐木隆三『ジャンケンポン協定』
泉大八『アクチュアルな女』
坂口安吾『あヽ無情』
野坂昭如『マッチ売りの少女』
花田清輝『鳥獣戯話』
今村昌平・山内久『果てしなき欲望』

である。花田清輝は、本巻の解説で、「黒いユーモア」、すなわち、

ガルゲン・フモール(Galgen humor)、

「ガルゲンは絞首台、フモールは諧謔。窮余の諧謔。曳かれ者の小唄」

とする。とすると、このアンソロジーに、

井上光晴、

の作品がないのは、いささか画竜点睛を欠くかに見える。この意味の「黒い」と題されたユーモアに値するのは、本巻掲載作品の中では、

井伏鱒二『白毛』
深沢七郎『楢山節考』
武田泰淳『第一のボタン』
安部公房『棒』
平林彪吉『鶏飼ひのコミュニスト』
野坂昭如『マッチ売りの少女』
花田清輝『鳥獣戯話』

かと思われる。特に、

野坂昭如『マッチ売りの少女』

は、アンデルセンの童話の、寒空の下でマッチを売っていた少女のラスト、マッチの炎に現れた祖母の幻影が消えるのを恐れた少女は、急いでマッチ全てに火を付け、自身も火と燃えるストーリーを頭の片隅に置くと、一層その「窮余の諧謔」ぶりが目立つ。

がさつな僕には、

尾崎翠『第七官界彷徨』

の繊細な少女の揺れる、

第七官、

はうまくつかみ取れない。少女の微妙な心情を描く環境として、特異な環境を設定した意図は、よく見えなかった。結果からみて、本当に、このシチュエーションが必要だったのだろうか、という疑問はぬぐえない。ガサツなせいかもしれないが。

やはり本巻の中で出色なのは、

花田清輝『鳥獣戯話』

である。巻末の解説を書く花田清輝自身が、この作品についての平野謙の、

「『群猿図』においてすら、あれの終わったところから小説ははじまるというような感想をいだかされた私としては、『孤狐紙』はますます後退してしまった、と思わざるを得ない。小さなことをいうようだが、作者は〈ないでもない〉とか〈らしい〉とか〈のようである〉というような言葉をさかんに使っているけれど、そういう作者自身のコケンのようなものをかなぐりすてたところに、小説世界はそれみずからを全肯定的によみがえらすのではないか」

という文芸時評の一説を引き、

「いくぶん、ほめかたがたりないような気がしないでもなかった」

と嘯く。おそらく、平野謙の小説観そのものと対峙するところに、花田清輝の小説世界はある。

〈ないでもない〉
〈らしい〉
〈のようである〉

という仮説というか、推測というか、曖昧化、によって事柄の中に多様な像を多重写しにして、その中の一つを可能性として取り上げ広げていく、この筆法自体が、小説世界になっている、ということを平野謙は認めなかったのである。例は悪いが、

春秋、

は、孔子の正邪の判断を加え、

些事をとりあげて、間接的な原因を直接的な原因として表現する、

ところから

春秋の筆法、

と言われる。しかし、それも歴史記述の一つである。事実の選択一つ、書き手の判断に俟たないものはないのではないか。

メタ小説(http://ppnetwork.seesaa.net/article/457109903.html

で触れたように、鴎外の『澀江抽斎』は、

史伝、

という範疇に入れるしかなかったが、

「著者はこの伝記の稿に筆を下すに当たって,先ず如何にして自分がこの作品の主人公とめぐりあったか,どうしてその人に関心をいだき,伝記を立てる興味をおこしたか,そしてこの著述に如何にして着手し,史料は如何にして蒐め,また如何にして主人公に就いての知識を拡大して行ったか,その筋みちを詳しく説明してゐるのである。言ってみれば著者はここで伝記作者としての自分の舞台裏をなんのこだわりもなく最初から打ち明けて見せてゐるのであり,著述を進めてゆく途上に自分が突き当たった難渋も,未解決の疑問も,一方探索を押し進めてゆく際に経験した自分の発見や疑問解決の喜びをも,いささかもかくすことなく筆にしてゐる。これは澀江抽斎といふ人の伝記を叙述してゐると同時に,澀江氏の事蹟を探ってゆく著者の努力の経過をもまた,随筆のやうな構へを以て淡々と報告してゆく,さうした特異な叙述の方法にもとづいて書かれた伝記である。」

と、解説者(小堀桂一郎)自身が説明しているように、まさに、平野謙の言う、

あれの終わったところから小説ははじまる、

という作品である。しかし、

小説とはどうして書くものかと考え,そう考えたことを書くこと、

自身がテーマなのである。卓見の石川淳は、それを、

「小説概念に変更を強要するような新課題が提出」
「小説家鷗外が切りひらいたのは文学の血路である」

と評した(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456849243.html)。

花田清輝の作品は、ある意味で、鴎外の切り開いた血路の先にある。しかし、鷗外自身はその新地平について気づいていなかったらしい。

「鷗外自身は前期のいわゆる小説作品よりもはるかに小説に近似したものだとは考えていなかったようである。たしかに従来の文学的努力とは性質のちがった努力がはじめられていたにも係らず,そういう自分の努力と小説との不可分な関係をなにげなく通り越して行ったらしい点に於て,鷗外の小説観の一端がうかがわれるであろう」

と石川淳は評した(仝上)。花田清輝は、それを意識的に切り開いている。だからこそ、平野謙の、

あれの終わったところから小説ははじまる、

を、

ほめ方が足りない、

と嘯いたのである。

参考文献;
大岡昇平他編『黒いユーモア(全集現代文学の発見第6巻)』(學藝出版)
石川淳『森鷗外』(ちくま学芸文庫)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 05:26| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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