懐石料理


「かいせきりょうり」に、

「懐石料理」

と当てるほかに、

「会席料理」

とも当てる。

「懐石料理」の「懐石」は、

「禅家の語。小食、夜食のこと。抑、腹に満たすを、温石を懐に入るる意として、懐石と称す。茶会の客も、初めは割子(わりご 白木の折箱)を懐して、各、食物を持ち寄りたるに因り、此称ありと云ふ。茶道は、繕り出づ、さもあるべし」(大言海)

「禅宗の僧が、一時的に空腹しのぐために懐に入れていた『温石(おんじゃく)』をいった。温石とは、蛇紋石や軽石などを火で焼き、布に包んだものである。懐石が空腹をしのぐものであったところから、簡単な料理・質素な食事を意味する」(語源由来辞典)

とあるが、どうやら、

「江戸時代になって茶道が理論化されるに伴い、禅宗の温石に通じる『懐石』の文字が当てられるようになった。懐石とは寒期に蛇紋岩・軽石などを火で加熱したもの、温めたコンニャクなどを布に包み懐に入れる暖房具(温石)を意味する」

らしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%9F%B3。それが料理に結び付く経緯は、諸説あり、

「一に修行中の禅僧が寒さや空腹をしのぐ目的で温石を懐中に入れたことから、客人をもてなしたいが食べるものがなく、せめてもの空腹しのぎにと温めた石を渡し、客の懐に入れてもらったとする説。また老子の『徳経』(『老子道徳経』 下篇)にある被褐懐玉の玉を石に置き換えたとする説などである」

後に、「懐石」の字を当てたものらしい。

「会席料理」の「会席」とは、

寄合の座敷、

の意味で、それが、

歌会または蓮歌・俳諧を興行する席・座敷・一座を言う、

ようになり、さらに、

茶の湯の席で行われる簡単な料理、

を指すに至る(岩波古語辞典)。

「会席は当て字なり、茶会の席上の料理の意に思ひ移したるなるべし」

とある(大言海)。

「懐石とは茶の湯の食事であり、正式の茶事において、『薄茶』『濃茶』を喫する前に提供される料理のことである。利休時代の茶会記では、茶会の食事について『会席』『ふるまい』と記されており、本来は会席料理と同じ起源であったことが分かる。江戸時代になって茶道が理論化されるに伴い、禅宗の温石に通じる『懐石』の文字が当てられるようになった」

だけのことである(仝上)。もともと、茶席での料理で、

茶料理、
会席、

と呼ばれていたものを、禅につなげて(つまりは権威化するために)、「懐石」の字を当てたものだ。

簡単な料理・質素な食事とは、

「茶席で亭主(ホストのこと)が客にもてなす料理のことです。もてなすといっても主役はあくまでも濃茶で、これを頂く前に、お客様の空腹をいやすために出される軽い食事」

を意味するものhttp://gogen-allguide.com/ka/kaiseki.htmlが、茶道では、

「献立・食作法・食器などにも一定の決まりが定められるようになった」

というわけである(語源由来辞典)。本来は、

一汁三菜、

のスタイルで、

「ごはん、お吸い物、3品のおかず、香の物で構成されていました。三菜にあたるおかずは、なます、煮物、焼き物の3種」

とシンプルなものhttps://macaro-ni.jp/57492だったらしい。

IMG_1070.jpg

(「一汁三菜」の基本 茶懐石では最初に出す膳の折敷(おしき)に、「飯」を左にして右側に「汁」を置き、そのむこう側に刺身やなますの「向付(むこうづけ)」配置する https://kondate.oisiiryouri.com/tyakaiseki-no-imi-yurai/より)


「天正年間には堺の町衆を中心としてわび茶が形成されており、その食事の形式として一汁三菜(或いは一汁二菜)が定着した。これは『南方録』でも強調され、『懐石』=『一汁三菜』という公式が成立する。また江戸時代には、三菜を刺身(向付)、煮物椀、焼き物とする形式が確立する。さらに料理技術の発達と共に、『もてなし』が『手間をかける』ことに繋がり、現在の茶道や料亭文化に見られる様式を重視した『懐石』料理が完成した。なお、『南方録』以前に「懐石」という言葉は確認されておらず、同書を初出とする考えがある」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%9F%B3

ただややこしいのは、「懐石料理」と「会席料理」とは、別のものであることだ。

「懐石料理」は、

茶懐石、

と区別されるように、

「茶事の一環であり、茶を喫する前に出される軽い食事で、酒も提供されるが、目的は茶をおいしく飲むための料理である」

のに対して、「会席料理」は、

「本膳料理や懐石をアレンジして発達したもので、酒を楽しむことに主眼がある」

ので、

「料理の提供手順も異なっているが、顕著に異なるのは飯の出る順番である。懐石では飯と汁は最初に提供されるが、会席料理では飯と汁はコースの最後に提供される」

し、「会席料理」は、

「一人一人に料理が盛って持ち出され、茶席におけるように、取り回し時に特別の作法」

があるわけではない(仝上)。つまり、「懐石料理」は、

茶席、

のものであり、「会席料理」は、

宴会、

のもの、ということになる。

日本の宴会は、

「酒礼・饗膳・酒宴の三部から構成され、中国の唐礼や朝鮮半島からの影響を受け酒礼に三献を伴う儀式が成立したと考えられている。酒礼は一同に酒が振る舞われる儀礼で、今日の乾杯や『駆付け三杯』にあたる。酒礼の後には飯汁を中心とした饗膳(膳、本膳)に入り、茶や菓子も含まれる。酒礼と饗膳は座を変えて行うことが多く、平安時代の饗宴においては酒礼・饗膳を『宴座』、宴会の酒宴は『穏座』と呼称して区別していた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%86%B3%E6%96%99%E7%90%86

「本膳料理(ほんぜんりょうり)」は、

室町時代に確立された武家の礼法から始まり江戸時代に発展した形式、

で、

「南北朝時代には公家の一条兼良の往来物『尺素往来(せきそおうらい)』において本膳・追膳(二の膳)・三の膳の呼称が記され、『本膳』の言葉が出現する。また、室町時代には『蔭涼軒日録』長禄3年(1459年)に正月25日に将軍足利義政が御所において御煎点(ごせんてん)を行った際の饗膳が記されて」

おり、

「室町時代には主従関係を確認する杯を交わすため室町将軍や主君を家臣が自邸に招く『御成』が盛んになり本膳料理が確立した。本膳料理の確立に伴い、室町時代から江戸時代には『献立』の言葉が使用され、饗宴における飲食全体を意味した」

とある(仝上)。「本膳料理」は、

「《宗五大草紙(そうごおおぞうし)》(1528)には,初献(しよこん)に雑煮,二献に饅頭(まんじゆう),三献に吸物といった肴(さかな)で,いわゆる式三献(しきさんこん)の杯事(さかずきごと)を行い,そのあと食事になって,まず〈本膳に御まはり七,くごすはる〉とあり,一の膳には飯と7種のおかず,以下二の膳にはおかず4種に汁2種,三の膳と四の膳(与(よ)の膳)にはおかず3種に汁2種,五・六・七の膳にはそれぞれおかず3種に汁1種を供するとしている」

といった例(世界大百科事典)があり、大規模な饗宴では七の膳まであったとの記録もあったとされる。
「式三献(しきさんこん)」とは、

三献、

酒宴の作法の一つで、饗宴で献饌ごとに酒を勧めて乾杯することを三度繰り返す作法、

といい、

「中世以降、特に盛大な祝宴などでは『三献』では終わらず、献数を重ねることが多くなり、最初の『三献』を儀礼的なものとして、特に『式三献』というようになったものと思われる」

とある(精選版 日本国語大辞典)。のん兵衛は相変わらずである。

「本膳料理」からくる「会席料理」の献立は、たとえば、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E5%B8%AD%E6%96%99%E7%90%86

に詳しいし、「懐石料理」の献立は、たとえば、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%9F%B3

に詳しい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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