死霊
埴谷雄高『死霊』を読む。
『死霊』の一~三章までは、何度も読んだ記憶がある。その後、四、五章が二十数年ぶりに執筆され、一巻にまとめられた時、各章にタイトルがついた。
第一章 癲狂院にて
第二章 《死の理論》
第三章 屋根裏部屋
第四章 霧のなかで
第五章 夢魔の世界
さらに、その後、
第六章 《愁いの王》
第七章 《最後の審判》
第八章 《月光のなかで》
第九章 《虚體》論―大宇宙の夢
と書き継がれ、一応未完ながら、死の直前書き終えられた。今回、改めて、全部を読み通してみた。率直な感想を言うなら、文庫では、第一巻が、
第一章 癲狂院にて
第二章 《死の理論》
第三章 屋根裏部屋
第二巻が、
第四章 霧のなかで
第五章 夢魔の世界
第六章 《愁いの王》
第三巻が、
第七章 《最後の審判》
第八章 《月光のなかで》
第九章 《虚體》論―大宇宙の夢
と分けられているのに倣っていうと、
第一巻(一~三)は、快作、
第二巻(四~六)は、怪作、
第三巻(七~九)は、懈作、
という印象である。特に、
七~九
は、作家自身が死期を意識してか、言いたいことを言い急ぐ感じで、小説としての結構を崩してしまっている。『死霊』は、基本、
対話、
を中心にして成り立っている。しかも、会話の主張の多くは、
喩え、
や
たとえ話、
や
アネクドート、
で語られる。それ自体が閉鎖的である。あるいは、
自己完結
したものである。それは、
自己意識の妄想、
にふさわしいのかもしれないが、僕には新しさを感じなかった。書評家の大森望氏が,
「現実的で論理的なのがミステリー、非現実的で論理的なのがSF、現実的で非論理的なのがホラー、非現実的で非論理的なのがファンタジー」
と定義したのに倣うなら、『死霊』は、一種、
ファンタジー、
である。ある意味、自己意識の語る、
壮大な自己実現の夢想、
である。埴谷は、「不可能性の作家」で、「吾思う故に我あり」の「思う」に、
「理解する、欲する、想像する、知覚するなどの広い意味」
で理解し、その思惟作用に、
推理する、
も加え、
「幾段かのより高くなりゆくその種の推論を飛躍している裡に、想像力はもはやまったく客観的な対応物を自身のなかに失って…これまで嘗てなく、またこれからも決してないだろうところの唯一無二の事物に到達した不可能性の作家」
は、ドストエフスキーとポーしかいないとし、そのボーの『メエルストロームの渦』について、
「そこに夢より幻想、幻想より想像力、想像力より推論が打ち勝ち…、そこに在るものを描くのではなく、そこに決してないものを創り出してしまう」
衝迫力について書いていた。言葉を換えれば、非現実の中に描き出した世界である。
その意味で、僕から見れば、
存在のホログラフィー、
でしかない自己意識の身もだえに近い、『死霊』の、
儚い夢物語、
の世界は、やはり、
ファンタジー、
である。その意味で、
喩え、
で語るのはふさわしいのかもしれない。しかし、「喩」は,所詮、
何かのアナロジー、
である。その何かを直截語れないので、メタファーや逸話で語るしかないのである。それは,語れない時点で、方法の敗北ではあるまいか。
世界を「喩え」で語っても,世界は語り尽くせない。いや語れないから、喩えたのである。しかし,それで完結させようとしている,というふうに見える。だからこそ、また、
ファンタジー、
である。『死霊』とほぼ同時期に出た、『嘔吐』で、サルトルは、
ロカンタンの日記、
のスタイルをとり、ラスト、
一編の小説、
を書こうと決意するところで終わる。その一片の小説が、
嘔吐、
という作品である、というように受け止められる。この方法自体を別段斬新とは思わないが、方法としては、二十世紀的である、と僕は思う。
小説は、何を書くか、
ではなく、
どう書くか、
こそが主題である、と僕は思うが、対話と喩えで終始する『死霊』は、僕には、十九世紀的であると思えてならない。多くの論者が、この中で論じられている「何」を中心に語り過ぎでいる。小説は別に、思想を述べる手段ではない(そんな議論はプロレタリア文学論争で疾うに終わっている)。何が書かれているかは、本来どうでもいい、それがどう書かれようとしているかこそが、問われるべきなのではないか。
対話で成り立っている全体のうち、一~三は、対話となっている。両者が絡み合い、響きあいながら、世界が描けている。しかし、四~六になると、それが怪しくなり、七~九になると、ほぼ一方的な語りに終始する。それは、既に、対話を方法としたこの作品の結構が破綻しかけている証である。僕には、
神格化の一~三、
に対して、地に降りた、
普通化の四~六、
であり、ついに、
破綻化の七~九、
に見える。大江健三郎は、この作品は、
「三輪与志と津田安壽子の愛の物語」
だと主張した、という。それに倣うなら、いささか古風なところの垣間見える埴谷雄高の男女感からみれば、僕には、
津田安壽子の恋、
という方が叶っているとも見える。未完の九章のラスト、
―ほう、何が、はじめて全宇宙に創出されるのでしょう……?
―与志さんの、虚体、です!
と、さっと頬全体に紅い帯を掃かせながら、津田安壽子は鋭く叫んだ。
の、一言に安壽子の思いが籠り、作品全体と釣り合っているように見えるから。
ちなみに、「死霊」は、
シリョウ、
とは訓ませず、
シレイ、
と訓ませる。埴谷雄高自身が、
「日本語は怨霊のリョウなんだけれども、そうすると恨めしやという感じになっちゃうんだよ。日本の怨霊は全部或る個人に恨めしやという感情をもって出てくるんだね。ぼくのあそこに出てくる幽霊はみんな論理的な、しかも一見理性的で全宇宙を相手にするような途方もない大げさなことばかりしゃべる。そうした理性的幽霊しか出てこないから、いわば『進歩した』現代の語感をもってシレイと読ませているんだ」
と語っている(『二つの同時代史』)し、
「死霊」は革命で死んだ死者、
の意であり、主人公は、
五章(夢魔の世界)で出てる、
という発言(仝上)から見ても、
死霊(しりょう)、
のことのようだが、僕には、それぞれの自己意識の妄想は、
死霊、
ではなく、三輪与志、高志、首猛夫、矢場徹吾等の
生霊(いきりょう)、
のように見える。そして、当たり前だが、ここでの宇宙論は、
人間原理、
そのものである。
参考文献;
埴谷雄高『死霊』(講談社)
大岡昇平・埴谷雄高『二つの同時代史』(岩波書店)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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