「おでん」は、
御田、
と当てる。
田楽(でんがく)」の「でん」に、接頭語「お」を付けた女房詞、
である。御所で使われたことばが、上流社会に通じたもので、それが民間に広がった。
田楽とは、
豆腐に限って言った、
ので(たべもの語源辞典)、「おでん」は、
豆腐、
と決まっていた。
「豆腐を長方形に切って、竹の串をさして炉端に立てて焼き、唐辛子味噌を付けて食べた。初めは、つける味噌は唐辛子味噌に決まっていた」
のであり、これが、
おでん、
であった(仝上)。
「田楽」という名前の起こりは、
「炉端に立てて焼く形が田楽法師の高足の曲という技術の姿態によく似ているので、のちに、豆腐の焼いたものを田楽とよぶようになった、ともいう」
とある(仝上)。「高足」(たかあし、こうそく)とは、
「田楽で行われる、足場の付いた一本の棒に乗って飛び跳ねる芸。鷺足(さぎあし)とも呼ばれる」
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%B6%B3)。高足を串に見立てた意味がよくわかる。
「田植どきに豊作を祈念して白い袴(はかま)に赤、黄、青など色変わりの上衣を着用し、足先に鷺(さぎ)足と称する棒をつけて田楽舞を行った。このときの白袴に色変わりの上衣、鷺足の姿が、白い豆腐に色変わりのみそをつけた料理に似ているので、田楽のようだといったのがこの料理の名称となり、本来の舞のほうは忘れ去られた」
とある(日本大百科全書)。
時代は、永禄(1558~70)の頃、とされる。その後、元亀・天正(1570~92)頃には、流行していた。
天正五年(1587)の『利休百会』に、豆腐の料理を挙げて、
「とうふくずに、とうふのうば(ゆば)、とうふのでんがく」
とある、らしい(仝上)。「豆腐田楽」は、一串二文と安い。今日の三十数円、という感じである。
天明(1571~89)の頃になると、「田楽」は多種類になる。
「こんにやく」の田楽は、元禄(1688~1704)頃で、宝暦十年(1760)の『献立筌』に、
こんにゃくの田楽、
が載る。こんにゃく田楽は、豆腐の田楽のように、
「串に刺して、茹でて、味噌をぬった」(仝上)。
天明二年(1782)の『豆腐百珍』には、
「木の芽田楽、ふたたびでんがく、はじやきでんがく、葛田楽、うにでんがく、浅ぢでんがく、まゆでんがく、みの田楽、たまごでんがく、あこぎ田楽、つぶて田楽」
等々が載る(仝上)。各田楽の詳細は、http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-9.html
に詳しい。翌年の続編『豆腐百珍』、翌々年の『豆腐百珍余録』が上梓され、
「目川でんがく、今宮のすな田楽、衛士田楽、青みそ田楽、みたらし田楽、あづま田楽、なんばん田楽、小野田楽、煮取田楽、女郎花田楽、小倉田楽、しののめ田楽、出世田楽、太平でんがく」
等々が載っている(仝上)。これはすべて、
豆腐田楽、
のバリエーションである。
「(江戸では)田楽豆腐を『短冊豆腐』とか『田楽焼』といった。冬のたべものだった田楽が、木の芽を使うようになると初夏の名物の一つとなった。京都の四季という唄に『二本差しても柔らかい祇園豆腐の二軒茶屋』とあるが、上方の田楽は串を二本指してった。江戸では串は二本であった。しかも京阪の串は股のあるもので、白味噌に山椒の若芽をすりこんだが、江戸で股のない串を通して赤味噌を塗って木の芽をのせた」
とある(たべもの語源辞典)。
(豆腐田楽を作る美人・歌川豊国 棚の中に串に刺した豆腐と味噌壺がある https://www.syokubunka.or.jp/gallery/nishikie/detail/post010.htmlより)
この間に、野菜を材料にした田楽が現れる。
野菜田楽、
である。享保十五年(1730)の『料理綱目調味抄』には、
「大根、かぶ、牛蒡、山のいも、芋、栗、かしゅう、蓮根、くわい、瓜、唐茄子、冬瓜、松茸、ししたけ」
の味噌田楽が載っている、という。豆腐が田楽の元祖であるためか、
「豆腐の形に切れるものは、豆腐のように見せて焼いて味噌をつけたものが多い」
とある(享和・文化・文政(1801~30)に三分冊が上梓された『素人庖丁』)。野菜が出れば、当然ながら魚類の田楽が出る。
魚田(ぎょでん)、
という。前出の『料理綱目調味抄』に、
「ゑひ、うなぎ、はぜ、小ぶな、あわび、あかがひ、はまぐり、たいらぎ、かき、えび、たい、ひらめ」
が載る。それぞれ、
何々みそ付焼、
醤油付焼、
とある。やはり、切れるものは、長方形や四角に切っている。まだ豆腐の味噌田楽の尾を引きずっている。
文化・文政・天保(1804~44)年間には、
「串に刺したこんにゃくを味をつけて煮込むようになってきた」
という(仝上)。これが、
煮込みおでん、
の始まりである。一説に、
田楽に菜飯(なめし)が付き物であったように,おでんには茶飯が付き物とされた、
とあり、
「菜飯に田楽を添えて提供する『菜飯田楽』は寛永の頃から流行をはじめ、まもなくこんにゃくの田楽が登場し、これがオデンの略称で呼ばれるようになったとする。『浪花の風』(安政三年(1856)頃から文久三年(1863)頃)によれば『この地(上方)にても、蒟蒻の田楽をおしなべておでんと呼ぶ』とある。この頃のこんにゃくおでんは味噌田楽であったが、菜飯田楽の流行から煮込みのこんにゃくがつくられ『煮込みおでん』と言われたものが、むしろこちらが名前を奪い煮込み野菜類にハンペンや信田巻きなども加えて広くおでんと呼ばれるようになった」
とする(平凡社大百科事典)。『守貞謾稿』(1837年)には、「上燗おでん」という振り売りがあり、
「酒燗と蒟蒻の田楽であり、江戸のものは芋の田楽も売る」
と紹介されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%A7%E3%82%93)。結果、「おでん」は、
煮込み田楽、
を指し、「田楽」は、
焼き田楽、
を指すことになった。この「おでん」は、
「蒟蒻を三角に、里芋を二つに切り、焼蒲鉾、蓮根ヲ厚さ二分ほどづつに輪切にし、何れも一つづつ竹串に刺し、煮出汁に醤油、砂糖、漉味噌少し入れたるに、串のまま浸して、温火(とろび)にて煮て成る。多くは行商す」
とある(大言海)ように、串に刺してある。「煮込み田楽」の背景には、醤油がある。
「元禄期に銚子ではじまった醤油醸造は、やがて江戸経済圏の発展とともに香りと味の良い醤油を盛んに供給するようになり、削り節に醤油や砂糖、みりんを入れた甘い汁で煮込んだ『おでん』が作られるようになった。外食産業が盛んであった江戸では、『おでん燗酒、甘いと辛い、あんばいよしよし』の掛け声で売る『おでん・かんざけ』と書いたのれんを掲げたおでんの振売や屋台が流行した。
(文化年間(1804~17)四文均一の飲食物を売った屋台店。串に刺した「おでん」のような食べ物を売っていた https://www.benricho.org/Unchiku/edo-syokunin/04syokuninzukushiekotoba/05.htmlより)
本格的に、今日のような「おでん」となったのは、明治以降のことで、
「上方では、田楽が『お座敷おでん』として客座敷に出されるようになったが、種を昆布だしの中で温めて甘味噌をつけて食べる『焼かない田楽』と区別するために『関東炊き/関東煮』(かんとだき)と呼んだ。その後の関東煮は、昆布・クジラ・牛すじなどでダシをとったり、薄口醤油を用いたりと、関西風のアレンジが加えられていった。これを『関西炊』と呼ぶ人もいる」
とある(仝上)。
関東煮の語源には、
「かんとうふ煮」説、
中国広東の煮込み料理に由来する「広東煮」説、
もある(仝上)。
ところで、「茄子の味噌田楽」と「茄子の鴫焼」とどう違うのだろう。
たとえば、田楽は、
田楽味噌をのせて焼く焼き物の総称、
とある(https://temaeitamae.jp/top/t8/Japanese.food.4/1/09.html)。「おでん」は、
煮たもの、
で、それと関係がありそうなのが、
風呂吹き大根、
だが、茄子を輪切りにしたとき、「茄子味噌田楽」は、ほぼ、鴨の肉抜きとなった、
茄子の鴨焼き、
と重なるのではないか。どうみわけるのだろうか。
「鴫焼」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471514070.html?1573674929)については、前に触れた。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95