2019年11月22日
戦いの痕
大岡昇平他編『存在の探求(上)(全集現代文学の発見第7巻)』を読む。
本書は、
現代文学の発見,
と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し,テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、二巻に分かれた、
存在の探求,
と題された前半である。収録されているのは、
梶井基次郎『櫻の木下には』『闇の繪巻』
北條民雄『いのちの初夜』
中島敦『悟浄出世』『悟浄歎異』
稲垣足穂『彌勒』
椎名麟三『深夜の酒宴』『スタヴローギンの現代性』
埴谷雄高『死霊』『存在と非在ののっぺらぼう』『夢について』『可能性の作家』『不可能性の作家』
武田泰淳『ひかりごけ』『滅亡について』
である。いずれも、何回か読んだことがある。この中で、群を抜くのは、
埴谷雄高『死霊』
である。これについては、別途触れた(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471454118.html?1574308068)が、存在とのかかわりを、自己意識側から、広げるだけ広げて見せたというところは、他に類を見ない。特に、本書に納められた、一~三章は、文章の緊張度、会話の緊迫度、無駄のない描写等々、のちに書き継がれた四章以降とは格段に違う、と僕は思う。
俺は、
と言って、
俺である、
と言い切ることに「不快」という「自同律の不快」とは、埴谷の造語であるが、少し矮小化するかもしれないが、
自己意識の身もだえ、
と僕は思う。埴谷は、自己意識の妄想を極限まで広げて見せたが、「存在」との関わり方には、
自分存在に限定するか、
世界存在に広げるか、
その世界も、
現実世界なのか、
或いは、
自然世界なのか、
で、方向は三分するように思う。『いのちの初夜』は、自分の癩に病にかかったおのれに絶望して、死のうとして死にきれず、
「ぬるぬると全身にまつわりついてくる生命を感じるのであった。逃れようとしても逃れられない、それはとりもちのような粘り強さ」
の生命を意識する。そして同病の看護人の佐柄木に、
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです」
と言われる。その生命そのものになった己を受け入れよ、と言われる。
「あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこからくるか、考えてみて下さい。ひとたび死んだ過去を捜し求めているからではないでしょうか」
似た発想は、稲垣足穂『彌勒』にもある。主人公、
「江美留は悟った。波羅門の子、その名は阿逸多、いまから五十六億七千万年の後、竜華樹下において成道して、さきの釈迦牟尼の説法に漏れた衆生を済度すべき使命を託された者は、まさにこの自分でなければならないと」
ここにあるのは、自己意識の自己救済の妄想である。しかし、それは、叔父の用意した紅白の、輪を作った綱を示されて、
「咄嗟に思いついて、その綱の輪を首にかけた。そしてネクタイでも締めるようにゆるく締めてから二、三度首を振った」
主人公の、現状の悲惨な状況を無感動に受けいれているのと、実は何も変わってはいない。
「そのとき、突然僕は時間の観念を喪失していた。僕は生まれてからずっとこのように歩きつづけているような気分に襲われていた。そして僕の未来もやはりこのようであることがはっきり予感されるのだった。僕はその気分に堪えるために、背の荷物を揺り上げながら立止った。そして何となくあたりを見廻したのだった。すると瞬間、僕は、以前この道をこのような想いに蔽われながら、ここで立止って何となくあたりを見廻したことがあるような気がした。……この瞬間の僕は、自分の人生の象徴的な姿なのだった。しかもその姿は、なんの変化も何の新鮮さもなく、そっくりそのままの絶望的な自分が繰り返されているだけなのである。すべてが僕に決定的であり、すべてが僕に予定的なのだった。……たしかに僕は何かによって、すべて決定的に予定されているのである。何かにって何だ―と僕は自分に尋ねた。そのとき自分の心の隅から、それは神だという誘惑的な甘い囁きを聞いたのだった。だが僕はその誘惑に堪えながら、それは自分の認識だと答えたのだった」
「認識」と己に言い切らせる限りで、自己意識は、まだおのが矜持を保っているが、それはそのまま今のありように埋もれ尽くすという意味では、より絶望的である。それは、
絶望を衒う、
といってもいい。
それにしても、しかし、いずれも、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャのように、
神の作ったこの世界を承認することができない、
という、
「僕は調和なぞほしくない。つまり、人類に対する愛のためにほしくないというのだ。僕はむしろあがなわれざる苦悶をもって終始したい。たとえ僕の考えが間違っていても、あがなわれざる苦悶と癒されざる不満の境に止まるのを潔しとする」
境地から後退してしまうのだろう。埴谷も椎名も、ともに投獄の経験を持ち、そこから後退したところで、身もだえしているように見える。確かに、
戦いの痕跡、
はある。しかしそれで終わっていいのだろうか。そこには、日本的な、余りにも日本的な、
自己意識の自足、
か、
自然への埋没、
か、
しかないのだろうか。今日の日本の現状を併せ考えるとき、暗澹たる気持ちになる。
参考文献;
大岡昇平他編『存在の探求(上)(全集現代文学の発見第7巻)』(學藝書林)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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