「味噌」の字については、手前味噌(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471631451.html?1574193427)で触れた。「味噌」そのものの起源には、
中国伝来説、
日本独自説、
の二説があるらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C)。
(味噌蔵の木桶(愛知県岡崎市のまるや八丁味噌) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8Cより)
中国伝来説は、
古代中国の醤を根源とし、遣唐使により中国を経て伝来したとされる説、
である。醤(ひしお)は、中国語では同文字を jiàng (チァン)と発音するペースト状の調味料で、原料によって、肉のものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、穀物のものは穀醤と呼ぶ。日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当することになる(仝上)。
「語源も『未だ醤にならないもの』という意味の未醤から平安時代に味醤、味曽、味噌となった。701年の大宝律令に未醤が課税対象としてあらわれ、『主醤』という醤を管理する役職の記述もある」(仝上)
日本独自説は、
古く弥生時代からとする説もあるが、豆を用いた現在の味噌とは違う液体状のもので、魚醤に近い。日本においては縄文時代から製塩が行われ、醤(ひしお)などの塩蔵食品が作られていたと見られる。縄文時代後期から弥生時代にかけて遺跡から穀物を塩蔵していた形跡が見つかっている(仝上)。
「現在の味噌の起源に連なる最初は、奈良時代である。当時の文献に『未醤』(みさう・みしょう:まだ豆の粒が残っている醤の意味)と呼ばれた食品の記録がある。また『末醤』とも書かれ、『大宝令』(大宝元年(701年))の『大膳職』条では『末醤』と記される。他に味醤、美蘇の字もすでに見える。藤原京(700年前後)の遺跡からは、馬寮(官馬の飼養などを担当する役所)から食品担当官司に醤と末醤を請求したものとして、表は『謹啓今忽有用処故醤』、裏には『及末醤欲給恐々謹請 馬寮』と書かれた木簡が発掘されている」(仝上)
中国由来説は、豉(くき)をミソの前身とするものである。「豉」については、
納豆(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470884655.html)、
で触れたように、
「豆腐と同じように、中国から製法が伝わったものである。中国では、納豆を『鼓(し)』といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキとしてある。鼓をクキとよんだ。中国の鼓には、淡鼓、塩鼓がある。淡鼓が、日本の苞納豆(糸引き納豆)にあたり、塩鼓が日本の浜名納豆・寺納豆・大徳寺納豆の類である」(たべもの語源辞典)
鑑真が持ってきたのは、豉ではないか、とする(たべもの語源辞典)。で、たべもの語源辞典は、味噌日本独自説を、こう展開する。
「日本列島の原住日本人は、海水から塩をとることを発見していたが、この保存に苦しんだ。海水からとった塩は、岩塩と違って、ニガリが多く、空気中の湿気をすぐとけて液体となり、流れ去ってしまう。この保存法として塩と食物を一緒にすることを考えついた。ダイズと塩を合わせることは、最も早く行われた。ダイズは、日本列島にコメよりも早く栽培されていた。アメリカのダイズは、日本のダイズをもっていったものである。醤というたべものは塩の保存法として生まれた。完全な醤になる前の状態のもの、未完成のものという意味で未醤(みそ)という名称が生まれた。(中略)中国から豉が入り韓国からも醤が入ってくる。これらを参考として日本のミソは生まれたものである」
と(仝上)。つまり、「味噌」の原点は、にがりの多い、海水由来の塩をどう保存するかから生まれた、という発想は、是非はともかく面白い。
「醤」から始まっても、日本独自に発展したにしても、「未(末)醤」から、
「未醤、あるいは末醤が、やがて味醤、味曽、味噌と変化したものであることは、『倭名類聚抄』(934年頃)や『塵袋』(1264-1287年頃)という辞書に書かれている」
と、「味噌」は始まることになる(仝上)。古く、
「天平二年(730)、尾張の醤・未醤が奈良朝廷に納めたという記録がある」
とか(たべもの語源辞典)。
鎌倉時代の『塵袋』には、
「味噌という字は正字かあて字か、正字は末醤であり、書きあやまって未醤となった」
と(たべもの語源辞典)し、
「末というのは搗抹することで、未せぬものは常のヒシホで、末したものがミソである」
と論じているとか。しかしこの論は、誤りとするのが江戸後期、文化末年(1818)の『松屋筆記』(小山田與清)で、
「未とすべきを味とし、醤を曾とし味噌となった」
とする。江戸中期、享保四年(1719)の『東雅』(新井白石)は、
「高麗醤を弥沙(ミソ)という、醤をヒシホというが、ヒがミに転じ、シホはソと転訛シタノガ、ミソである」
としているという(たべもの語源辞典)。大言海が「みそ」に、
味噌、
味醤、
と当て、
「韓語なり。東雅『宋の孫穆の鶏林類事に、醤を密祖と云ふ』とあり、今も然り、和名抄に、高麗醤の称あり、證とすべし、同書に末醤(マツシヤウ)を未醤(ミシヤウ)と誤れりとの説、或いは、唐僧、鑑真、嘗めて未曾有と称したるに起こるなど云ふ皆付会なり」
とするのは、東雅に基づいている。和名抄には、確かに、
「未醤、高麗醤、美蘇、俗用味噌二字」
とある。
朝鮮語miso(密祖)から(外来語辞典=楳垣実・外来語辞典=荒川惣兵衛)、
も同説である(日本語源大辞典)。江戸初期の、慶長一九年(1614)の『慶長見聞集』(三浦茂信)に、殿上人がミソをヒクラシというから味噌を虫というのだと書いてある(たべもの語源辞典)が、これは、
「古く味噌を香(かう)ともいうが、香の名に『ひぐらし』があるので味噌をヒクラシとよんだ」
ところによるらしい(仝上)。
鑑真が嘗めて、未曽有といったとか、文徳天皇のときに唐僧湛誉が来朝して献上した等々はみな誤りのようで、
「天平時代日本において独自の製法が工夫され、日本的に完成されていた」
と、たべもの語源辞典はいう。ただ、経緯から、それが、
未(末)醤、
なのか、
味噌、
なのかの区別は、後世ではつかない。「味噌」の語源として、
蒸し→みそ、
とする説がある。
「お蒸しmusi、omusiが、音韻変化によりmiso、omisoになった」(日本語源広辞典)
「秋大豆を蒸してつき砕くところから、岡山県・滋賀県神埼郡では味噌のことをムシ(蒸し)という。女性語のオムシ(お蒸し)は近畿・福井・大垣・岡山県小田郡・四国で用いられ、石川・三重県阿山郡では転音してオモシという。このムシ(蒸し)の転音がミソ(味噌)であった」(日本語の語源)
しかし、この言葉は、後世のものとみられる。
((左から)麹味噌・赤味噌・合せ味噌 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8Cより)
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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