「醤油」と「味噌」は深くつながる。「味噌」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471703618.html)については、すでに触れた。
「醤油」の成語の初見は、慶長二年(1597)の『易林節用集』とされる(たべもの語源辞典)。そこで、
「漿醤」に「シヤウユ」と読み仮名が振られている、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9)。比較的新しい。
「醤」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、
「会意兼形声。『酉+音符将(細長い)』。細長く垂れる、どろどろした汁」
で、
肉を塩・麹・酒で漬けたもの。ししびしお、
の意と、
ひしお。米・麦・豆などを塩と混ぜて発酵させたもの、
の二つの意味がある。前者は、「醢」(カイ しおから)、後者は、「漿」(ショウ 細長く意とを引いて垂れる液)と類似である(漢字源)。
「醤は原料に応じさらに細分される。その際、原料となる主な食品が肉であるものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、そして穀物のものは穀醤である。なお、現代の日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当する」
が(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)、味噌から発展した液状のものが現在の日本の醤油になる。
「醤は、シシビシオである。シシは肉、だから肉の塩漬のことである。ヒシオのヒは隔つる義で、醸して久しくおくと塩と隔つのでその名とする説、また、浸塩(ひたししお)の意との説もある。またミソともよむ。漿(コンツ)と同じである。」
とある(たべもの語源辞典)。「ひしお(醤・醢)」とは、
なめみそ、
である。
味噌は鎌倉時代の精進料理の伝来のなかで大きな影響を及ぼし,寺院でのみそ作りが盛んになったという。当時は調味料としてよりも『なめみそ』扱いをされたことが『徒然草』にも記されている」
とある(https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf)。「ひしお」は、
大豆に小麦でつくった麹と食塩水を加えて醸造したもの、
の意だが(日本語源大辞典)、
「醤の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国に遡る。醤の文字は周王朝の『周礼』という文献にも記載されている。後の紀元前5世紀頃の『論語』にも孔子が醤を用いる食習慣を持っていたことが記されている。初期の醤は現代における塩辛に近いものだったと考えられている。
日本では、縄文時代後期遺跡から弥生時代中期にかけての住居跡から、獣肉・魚・貝類をはじめとする食材が、塩蔵と自然発酵によって醤と同様の状態となった遺物として発掘されている。5世紀頃の黒豆を用いた醤の作り方が、現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に詳細に述べられており、醤の作り方が同時期に日本にも伝来したと考えられている」
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)、これが「未醤」(みさう・みしゃう)と書いた味噌につながる。
「醤油は、醤からしみだし、絞り出した油(液)」
の意(たべもの語源辞典)の意であるが、室町時代に醤は「漿醤」となって、それに「シヤウユ」との訓読みが当てられた。現代の日本の醤油の原型は、味噌の液体部分だけを絞ったたまり醤油で、江戸時代に現代の醤油の製法が確立した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)。
「日本では、塩を海水からとったので、塩がすぐ溶けてしまう。そこで塩の保存法として食料品と塩とを合わせた。草醤(漬物になる)・魚醤(肉醤、塩辛になる)、そして穀醤(味噌になる)があり、奈良時代に中国から唐醤(からびしお)が入り朝鮮から高麗醤(こまびしお)が入ってくる」
ことで、
「701年(大宝元年)の大宝律令に官職名として『主醤』(ひしおのつかさ)という記載が現れる。なおこの官職は、宮中の食事を取り扱う大膳職にて醤を専門に扱う一部署であった。主醤が扱ったものには、当時『未醤』(みさう・みしゃう)と書いた(現代の)味噌も含まれていた。このことから味噌も醤の仲間とされていたことがわかる。
醤の日本語の訓読みである『ひしお』の用例は平安時代の903年(延喜3年)に遡る。同年の『和名抄』(日本最古の辞書)において、醤の和名に『比之保』(ひしほ)が当てられている。また927年(延長5年)に公布された『延喜式』には、醤の醸造例が記され、『京の東市に醤を売る店51軒、西市に未醤を売る店32軒』との旨の記述もある。」
ということになる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)。
「多聞院日記」の1576年の記事では、
「固形分と液汁分が未分離な唐味噌から液を搾り出し唐味噌汁としていたとあり、これが現代で言う醤油に相当する」
と考えられる(仝上)。つまり、
「味噌ができると、その汁を『たれみそ』と称して用いた。『たまりみそ』とも『うすだれ』ともいった。醤油の現れる前は、たれみそが用いられた」
つまり、「たまり醤油」である。初見は、慶長八年(1603)の『日葡辞書』で、
「Tamari. Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」
との記述がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9)。また「醤油」の別名とされている「スタテ(簀立)」の記述も同書にあり、天文十七年(1548)の古辞書『運歩色葉集』にも「簀立 スタテ 味噌汁立簀取之也」と記されている(仝上)。「たまり」の発祥は、
「後堀河天皇の安貞二年(1228)に紀伊国由良、興国寺の開山になった覚心(法燈国師)が宋から径山寺(きんざんじ)味噌の製法を日本に伝えた。そして諸国行脚の途中、和歌山の湯浅の水がよいので、ここで味噌をつくり、その槽底に沈殿した液がたべものを煮るのに適していることを発見した。後、工夫して文暦元年(1234)に醤油を発明した」
と伝える(たべもの語源辞典)、とある。同趣は、
「醤油は中国からもたらされた穀醤,宋の時代に伝わった径山寺みそ,日明貿易で中国から輸入されたという説があるが,紀州湯浅での醤油は径山寺味噌から発しているという説が有力である。この説は三世紀に宋で修業をおさめた僧(覚心)が径山寺味噌をひろめ,その製作工程中の上澄み液や樽の底にたまった液を集めて調味料として利用したというものである。」
がある(https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf)。覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を、
「紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型」
ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9)。しかし、その他に、
「伝承によれば13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で作られていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州(和歌山県)の由良興国寺の開祖・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌作りが広まった。この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながるたまり醤油の原型」
とする説、
「500年代に記された『斉民要術』には現代の日本の味噌に似た豆醤の製造法と、その上澄み液から作る黒くて美味い液体『清醤』の製造法が詳細に記述されており、その製造法や用途から清醤が現代のたまり醤油の原型であると理解されている。たまり醤油が中国で普及していった過程において、その製造法が日本にも伝来した」
とする説等々もある(仝上)。
この時代のたまり醤油は、
「原料となる豆を水に浸してその後蒸煮し、味噌玉原料に麹が自然着生(自然種付)してできる食用味噌の製造過程で出る上澄み液(たまり)を汲み上げて液体調味料としたもの。発酵はアルコール発酵を伴なわない。また納豆菌など他の菌の影響を受けやすく、澄んだ液体を採取することは難しかった」
が、木桶で職人がつくる、現代につながる本格醤油は、酒蔵の装備を利用し酒造りとともに発展した。そのため、
「麹はこうじカビを蒸した原料に職人が付着させ、原料の表面に麹菌を増殖させる散麹(ばらこうじ)手法をとる。麹は採取し、保存しておいて次の麹の種にする友種(ともだね)という採取法も取られている。発酵はアルコール発酵を伴う。こうじカビを用いたこのタイプは、17世紀末に竜野醤油の草分けの円尾家の帳簿に製法とともに『すみ醤油』という名前で現れている。」
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9)。これが今のヒガシマル醤油である。
「龍野醤油の醸造の始りは、天正十五年(1587)から後の寛文年間(1670)に、当時の醸造業者の発案により醤油もろみに、米を糖化した甘酒を混入して絞った。色のうすい『うすくち醤油』が発明」
された、とある(http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/mame01.html)。兵庫県龍野は淡口醤油発祥の地、
「もともとは酒造業が発達した地域であったものの、鉄分を含まない揖保川の水や播州赤穂の塩、播州平野の大豆など、醤油造りに適した土地柄でもありました。領主の脇坂氏の積極的な産業推進もあり、次第に醤油造りに移っていったのです」
とあり(https://jp.sake-times.com/think/study/sake_g_sake-and-soysauce)、龍野の醤油造りを担ったのが、地元で酒造りをしていた、または灘へ出稼ぎに出ていた播州杜氏たちであり、龍野の醤油造り唄の中には、
〽この寒いのに洗い番はどなた かわいい殿ごでなけりゃよい
〽かわいい殿ごの洗い番の時は 水は湯となれ風吹くな(龍野の醤油造り唄)
の一節があり、灘の歌にも、
〽寒や北風今日は南風 明日は浮名の巽風
〽今日の寒さに洗い番はどなた かわいい殿さの声がする
〽かわいい殿さの洗い番の時は 水も湯となれ風吹くな(丹波流酒造り唄)
というのがあり(https://jp.sake-times.com/think/study/sake_g_sake-and-soysauce)、酒造りの作業を醤油造りでも応用していたことがわかり、木桶を通した酒蔵と醤油蔵の関係や、蔵人たちの人的交流を通した技術の継承によって、「うすくち醤油」につながったものとみられる(仝上)。
(うすくち醤油(左)、こいくち醤油(右) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9より)
甘酒(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470325231.html)で触れたように、甘酒は,「昔は酒蔵が夏に手が空いた時期の副業として作られていた」のである。
淡口醤油と称する色の薄い醤油は、
「煮物に色がつかないので関西料理に愛好された。江戸では『下り醤油』と称して関西から船で運んでくる醤油を用いていたが、やがて関東の野田、銚子の醤油を用いるようになった。」
とある(たべもの語源辞典)。永禄年間(1558~70)に、武田方にたまり醤油が野田から納められた、という記録がきろくがある、という(仝上)。
いわゆる濃口醤油は、
「紀州の浜口儀兵衛が湯浅醤油(濃口醤油)の生産を関東の銚子で始め,江戸市場をバックに醤油醸造を成功させ,現在のヤマサ醤油になっている。関東平野での大豆・麦の産地を控えて,作った醤油を水路で江戸に運搬する利便性をもとに,銚子と野田が醤油の生産地として発展していった。そして濃口醤油の利用は江戸の料理の特徴にもなっていく。」
とある(https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf)。また、天明元年(1781)に、
「玖珂郡柳井津(現在の山口県柳井市)の高田伝兵衛によって「甘露醤油」(「再仕込み醤油」「さしみ醤油」)が開発されている」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9)
ところで、俗に、調味料を料理に用いる順番を表す語呂合わせの、
さしすせそ、
に当たる「せ」を、
せうゆ、
とするが、歴史的仮名遣いでは、
しやうゆ、
が正しい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9)が、「せうゆ」は、いわゆる許容仮名遣として広く行われていたものらしい(仝上)。
(守貞謾稿・江戸時代の醤油・塩売 たべもの語源辞典より)
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:醤油