大岡昇平他編『存在の探求(下)(全集現代文学の発見第8巻)』を読む。
本書は、
現代文学の発見,
と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し,テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、二巻に分かれた、
存在の探求,
と題された後半である。収録されているのは、
石上玄一郎『自殺案内者』
野間宏『暗い絵』
島尾敏雄『摩天楼』『夢の中での日常』
坂口安吾『白痴』『堕落論』
大岡昇平『野火』
安部公房『S・カルマ氏の犯罪―壁』
石川淳『無盡燈』
三好十郎『胎内』
吉田一穂「極の誘い」「穀物と葡萄の祝祭」「野生の幻影」
花田清輝「沙漠について」「楕円幻想」
である。
『自殺案内者』は、僕には作意が過ぎ、それが透けて見えるようで、とても好きになれない。小説は虚構だが、その結構が作為的では、ちょっとついていけない、と思った。あくまで憶説だが。これを「ゆたかな虚構」という評価もありえるが、僕は採らない。戦争文学の金字塔とされる『野火』は、敗走する日本兵の無残さを余さず描く。230万の戦死者の六割とか七割が餓死者といわれる、戦争指導者そのものの失策の附けを、兵卒が荷わされた惨状を、象徴的に描くのは、人肉を食うというシーンだ。捕虜となった主人公は、
「彼らを殺したけれど、喰べなかった。殺したのば、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、たしかに私の意志で喰べなかった。」
と言う。そう言わしめたのは、この国の指導者である。十分の補給も確保できないまま、机上で戦線を拡大した連中の無為無策、無能ぶりを、後に、大岡は、『レイテ戦記』でその実態を詳らかにした。
ただ、僕は、この小説の結構を、狂人日記としたのは不満である。「三七 狂人日記」以降は、蛇足ではないか。もちろん、時代の制約はある、と認めたうえで、なお小説の結構としては、斜めに逃げず、真正面から描くべきではなかったかと、惜しむ。
花田清輝の『復興期の精神』からとられた、二編は、戦争中に書かれたという点でも、出色である。精神は自在に、虚実の皮膜の隙間を泳ぎ回っている気配である。すでに、戦後の活躍の胚珠を抱えている。
島尾敏雄の『夢の中での日常』の、
「私の頭にはうすいカルシウム煎餅のような大きな瘡が一面にはびこっていた。私はぞっとして、頭の血が一ぺんにどこか中心の方に冷却して引込んで行くようないやな感触に襲われた。私はその瘡をはがしてみた。すると簡単にはがれた。しかしその後で急激に矢もたてもたまらないかゆさに落込んだ。私は我慢がならずにもうでたらめにきかきむしった。始めのうちは陶酔したい程気持がよかった。しかしすぐ猛烈なかゆさがやって来た。そしてそれは頭だけではなく、全身にぶーっと吹き上って来るようなかゆさであった。それは止めようがなかった。身体は氷の中につかっていた首から上を、理髪の後のあの生ぬるい髪洗いのように、なめくじに首筋を這い廻られるいやな感触であった。手を休めると、きのこのように瘡が生えて来た。私は人間を放棄するのではないかという変な気持の中で、頭の瘡をかきむしった。すると同時に強烈な腹痛が起こった。それは腹の中に石ころをいっぱいつめ込まれた狼のように、ごろごろした感じで、まともに歩けそうもない。私は思い切って右手を胃袋の中につっ込んだ。そして左手で頭をぼりぼりひっかきながら、右手でぐいぐい胃の中のものをえぐりだそうとした。私は胃の底に核のようなものが頑強に密着しているのを右手に感じた。それでそれを一所懸命に引っぱった。すると何とした事だ、その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引き上げられてきたのだ。私はもう、やけくそで引っぱり続けた。そしてその揚句に私は足袋を裏返しにするように、私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私の外観はいかのようにのっぺり、透き通って見えた。そして私は、さらさらと清い流れの中に沈んでいることを知った。」
という体感覚と、一瞬で裏返る自分という、我々のありようの別の貌を意表を突く形で現出してみせた。ここには、作家が、夢の文脈をなぞりながら、ただ、「私」の体感覚に一体化しているのではなく、その「私」をも、突き放す視点を持っている証である。それは、安部公房『S・カルマ氏の犯罪―壁』の、
「不意に舞台の両袖で気負い立った足音がしました。どこから現れたのか、グリーンの服の大男たちでした。立直るまもなく二人は左右から襲いかかり、力いっぱいぼくの背中を突きとばしました。ぼくはスクリーンの中に顔からつっこんでいきました。
と、ぼくは―というよりももはや彼はと言わなければならないでしょう―そのままスクリーンをつきぬけて画面の中にはいりこみ、部屋の中に倒れているのでした。」
と、映画のスクリーンの中に入り込むシーンとつながる。この時、作家は、「ぼく」も「彼」も、等間隔で眺める視点で、ずっと描いてきていることが、ここでわかるのである。それは、作家の、虚実皮膜の、皮膜の拡大と言ってもいい。そして、ひっくり返った「私」を見る位置と、スクリーンを通り抜けた「彼」を見る位置とは、ほぼ同じである。
解説で、埴谷雄高が、
「この方法的な領域において私達はまだ極めて僅かな歩幅の踏み出ししか行っていないのである。(中略)仮象の体操法とでも名づけるべき領域において、より僅かな踏み出ししかおこない得ないことに比例するかの如く、さて、さらに視点を遠くに投げて、存在の変容といった課題へ目を移せば、まことに寥々たる仕事しか見当たらないのである。」
と嘆いているのは、なにも、島尾や安部の試みた、変身や時空移動を指しているのではない。それは、作家の前の皮膜の幅の拡大である。かつて、
「世界像」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456849243.html)
や
「メタ小説」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/457109903.html)
で触れたように、鴎外は、
小説を書くことを書く、
ことによって、格段に皮膜の世界を広げた。そのことを言及した石川淳は『無盡燈』で、
「そこで、弓子の心願の正體を突きとめにかかるとすれば、わたしはわたしといふ質點に於て傾斜して來たところの、ひとりの女の心情曲線を微分して行くことになるだろう。そして、わたしが無藝の一つおぼえにもつている思考の方法は散文よりほかは無いのだから、この微分の操作をつづけて行つた揚句はしぜん小説の形式に出來上つてしまふかもしれないだらう。」
と書き、それが『無盡燈』という作品であるかのごとき体裁をとっている。むろん、それは、
「どこまで行つても地上のくされ縁がたたき切れずに、行つたさきから振出しに跳ねかへつて來るやうなぐあひに、所詮作者の生活に還元されてしまふことを見越しながら、書かれるであらう作品としいふものはむ、わたしの小説観にとつてぞつとしないしろものである。」
と書くように、作家自身を「私」とするような、皮膜が虚ではなく、実によりそうような、狭苦しい作品世界でなく、このために設えられた世界であることは、当然である。
そして、この各自分を書く位置と、ひっくり返った「私」、スクリーンを通り抜けた「彼」を見る位置とは、重なるのである。皮膜の奥行きとは、このことである。
参考文献;
大岡昇平他編『存在の探求(下)(全集現代文学の発見第8巻)』(學藝書林)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:皮膜の広がり