「さるまた」は、もう死語かもしれない。たしか、松本零士の漫画(『男おいどん』だったか)に「サルマタケ」というのが出てきたが、あれは70年代、それ以降聞かない。
「さるまた」は、
猿股、
申又、
と当てる。広辞苑には、
男子が用いる腰や股をおおうももひき。さるももひき、西洋褌、
とあるが、
ぱっち、
とも呼ぶ。僕の記憶では、漫画で、「サルマタ」と呼んでいたのは、
トランクス型の下着のパンツ、
であった。どうやら、「さるまた」は、
短い股引、
を指していたものらしい。
(1902年に作られたとされる、ユニオンスーツのカタログ https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/22/news136.htmlより)
「19世紀頃の欧米の主な下着であったユニオンスーツから派生し、日本に導入された。大正時代以降、褌と並ぶ男性用下着であった。」
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E8%82%A1)。
「ユニオンスーツ」は、上下がセットになった下着で、は腕や足までカバーできるものもあり、どちらかというと全身タイツのような外見であった(https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/22/news136.html)らしい。胸から股間のあたりまでボタンが並んでおり、前部分が開閉できた(仝上)、とある。さらに、
「一体型の下着であったユニオンスーツが1910年代に上下に分離化され、第一次世界大戦前頃(1914年)よりショートパンツ化されたことで、日本に出現したのは大正期以降ではないかと推測される」
ともある(仝上)。とすると、「さるまた」は、近代以降のものということになる。しかし、「さるまた」は、
猿股引(さるももひき)、
ともある。大言海は、「さるまた」は、
猿股引の、股を股(また)と読みたるなり、
とする。江戸語大辞典も、「猿股引」は、
膝下一、二寸の長さの股引、
とある。とすると、「股引」は、
猿股引の略、
ともある(広辞苑)ので、「さるまた」は、
股引(ももひき)、
(モモヒキ(股引) http://www.steteco.com/archives/history.htmlより)
と重なる。「股引」は、
両の股を通してはく狭い筒状の下ばき、
で、
ももはばき(股脛巾)、
ともいい大言海)、
股着(またはき)の転なるべし、脚絆に対して、股まではく、
とある(仝上)。脚絆は、脛に着け、小幅の長い布を巻き付けて紐で留める。
こうみると、確かに「さるまた」は、西洋由来かもしれないが、その土壌になる「股引」があったことになる。しかし、その「股引」自体、
ポルトガルから伝わったカルサオ(カルサンとも)が原形、
とされるが。
「さるまた」は、猿股引の略とする以外、
生地は薄茶色のメリヤス地、
で、そのため「さるまた」の「さる」は、
サラシ(晒)のサル(衣食住語源辞典=吉田金彦)、
という説もあるが、
京都や山梨県北都留郡では下部の短い猿股をキャルマタ、ケエロマタ(蛙股)といっており、それがサルマタと聞こえた(おしゃれ語源抄=坂部甲次郎)、
マタシャレという袴の一種を逆さに言ったという説(世界大百科事典)、
等々という説もある(日本語源大辞典)。しかし、股引からきて、猿股へつながった流れから見ると、
猿股引の略、
でいいのではあるまいか。「股引」は、
「江戸時代,職人がはんてん(半纒),腹掛けと組み合わせて仕事着とした。紺木綿の無地に浅葱(あさぎ)木綿の裏をつけ袷(あわせ)仕立てにしたが,夏用には白木綿や縦縞の単(ひとえ)もあった。すねにぴったりと細身に作るのを〈いなせ〉(粋)とし,極端なものは竹の皮をあてて踵(かかと)をすべらせなければはけないほど細く仕立てた。後ろで打ち合わせてつけ紐で結ぶのが特徴で,腰の屈伸が自由で機能的な仕事着である」
とあり(世界大百科事典)、さらに、
「脚の膨らみにあわせるように、後ろに曲線裁ちの襠(まち)が入っている。腰を包む引回しに特徴があり、裁着(たっつけ)、もんぺなどと構成を異にする。」
ともある(仝上)。
「江戸時代には武家、町人ともこれを用い、江戸末期になると、半纏(はんてん)、腹掛け、ももひき姿は職人の制服のようになり、昭和初期まで続いた。ももひきの生地(きじ)は盲縞(めくらじま)の木綿、商人は千草色、浅葱(あさぎ)色などで、武家用のは小紋柄(がら)であった。」
ともある(日本大百科全書)。
(北斎『富獄百景』三編 足代の不二 江戸時代の職人の股引姿 http://www.steteco.com/archives/history.htmlより)
「股引」は、
股脛巾(ももはばき)の変化した語、
とされる(貞丈雑記)が、上述したように、安土桃山時代にポルトガルから伝わったカルサオ(カルサンとも)と呼ばれる衣服が原形とされる。これが日本の伝統的ボトムスであり、下着としても使われた。腰から踝まで、やや密着して覆い、腰の部分は紐で締めるようになっている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A1%E5%BC%95)。江戸時代には鯉口シャツ(ダボシャツとも)や、「どんぶり」と呼ばれる腹掛けと共に職人の作業服となり、農作業[や山仕事などにも広く使われた(仝上)。
この変形に、
半股引(はんだこ)、
と称する、膝上までのハーフパンツに似た形のものがある。祭りなどで着るものである。
これが、
ステテコ、
の原型であるが、「ステテコ」は、
パッチ、
と呼ばれるものとつながる。「パッチ」という言葉は、18世紀頃には日本語として定着していた。
「京阪と江戸ではその呼び方に違いがある。京阪では素材を問わず足首まである丈の長いものをパッチ、旅行に用いる膝下ぐらいのものをモモヒキといい、江戸では(宝暦ごろから流行し始め)チリメン絹でできたものをパッチ、木綿ものは長さにかかわらずモモヒキと呼んだ。短いモモヒキは半モモヒキ(=半タコ)、または猿股引(さるももひき)と呼んで区別する事もある。パッチは一般にゆるやかに仕立てられ、モモヒキは細めに作られた。」
とある(http://www.steteco.com/archives/history.html)。また、
「筏師(いかだし)の間では極端に細いももひきが好まれ、これを川並(かわなみ)といった。はくときに竹または紙をくるぶしにあててはくほどの細さであった。これに対して五分だるみ、一寸だるみのものもあり、これを象ももひきといった。火消(ひけし)の者は江戸では釘(くぎ)抜きつなぎ、上方(かみがた)ではだんだら模様を用いた。」
ともある(日本大百科全書)。
つまり、「股引」から、「パッチ」「ステテコ」「半タコ」と経て、「さるまた」「トランクス」と変じてきたことになり、原形は、「股引」ということになる。その原型は、カルサオ(カルサン)である。
(カルサオ(カルサンとも) https://pt.wikipedia.org/wiki/Cal%C3%A7asより)
「ステテコ」は、着物や袴の下に穿く下着として、明治以降の日本の近代化に伴い全国的に普及したが、
1880年頃、初代(本当は3代目)三遊亭圓遊が「捨ててこ、捨ててこ」と言いながら、着物の裾をまくり踊る芸「ステテコ踊り」の際に着物の裾から見えていた下着であったためとする説、
着用時に下に穿いた下着の丈が長く、裾から下が邪魔であったため裾から下を捨ててしまえでステテコと呼ばれるようになった説、
等々に語源がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%86%E3%82%B3)、といわれているが、圓遊のはいていたのは、「パッチ」らしく、ステテコ踊りなので、
ステテコパッチ、
と呼ばれ、略して、
ステテコ、
になった(上方語源辞典=前田勇)、ともある。こちらのほうだろう。
「ぱっち」は、朝鮮語由来とされ、
朝鮮語ba-jiは男性がはくズボン状の服、
とある(日本語源大辞典)。
(パッチ 「金々先生栄華夢」日本語源大辞典より)
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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