「羊羹」は、一般には小豆を主体とした餡を型(羊羹舟)に流し込み寒天で固めた和菓子で、寒天の添加量が多くしっかりとした固さの、
煉羊羹(ねりようかん)、
と、寒天が少なく柔らかい、
水羊羹(みずようかん)、
があり、寒天で固めるのではなく、小麦粉や葛粉を加えて蒸し固める製法もあり、これは、
蒸し羊羹、
と呼ばれる。単に「羊羹」という場合、煉羊羹を指す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9)、とある。
(水羊羹(右)と葛饅頭(左) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9より)
しかし、「羹」(漢音コウ、呉音キョウ、唐音カン)は、
あつもの、
の意で、
「会意。『羔(丸煮した子羊)+美』」
とあり、
肉と野菜を入れて煮た吸い物、
である。大言海は、
「カンは支那音羹(キャング)なるべきか。或は羹(カク)の音轉か(庚申(カウシン)、かんしん。甲乙(カフオツ)、かんおつ。冠(カウブリ)、かんむり。馨(カウバシ)、かんばし)。支那にて羊羹と云ふは、戦国策、中山策に、『中山君饗都士大夫、云々、羊羹不遍』とあり、羊肉のあつものなれば、固より當らず、是れは羊肝糕にて(糕は餅なり)、羹、糕同音なれば、通はせ用ゐたるまなり(羹を糕の意とし菓子の名とすと云ふ)。羊肝とは其形色、羊の肝に相似たれば云ふ。牛皮糖の如し」
とする。牛皮糖とは、求肥(ぎゅうひ)のことである。もともとは「羊羹」は、
「読んで字のごとく羊の羹(あつもの)、つまりは羊の肉を煮たスープの類であった。南北朝時代に北魏の捕虜になった毛脩之が『羊羹』を作ったところ太武帝が喜んだという記事が宋書に見えるが、これは本来の意味の羊のスープであったと思われる。冷めることで肉のゼラチンによって固まり、自然に煮凝りの状態となる。『羹』の通常の音(漢音)は『こう(かう)』で、『かん』は唐音」
である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9)。
羹に懲りて膾を吹く、
という諺の「羹」である。
「羹とは、古くから使われている熱い汁物という意味の言葉で、のちに精進料理が発展して『植物性』の材料を使った汁物をさすようになりました。また、植物に対して『動物性』の熱い汁物を『臛(かく)』といい、2つに分けて用いました。」
ともある(https://nimono.oisiiryouri.com/atsumono-gogen-yurai/)。「あつもの」で引くと、
臛(カク 肉のあつもの)、
懏(セン 臛の少ないもの)、
と載る(字源)。
「羊肝糕(ようかんこう)は紅豆白糖を以て剤となす。牛皮糖は糯粉糖(じゅふんとう)を以て超して滷(こ)して餅となすべし」
と中国の『金門歳節』にあるという(たべもの語源辞典)。
「羊肝は羊の肝で、糕(こう)は餻(こう)と同字、むし餅の類である。紅豆は赤小豆で白糖は白砂糖である。これは羊の肝の色をした赤小豆と白砂糖でつくったむしもちのようなもの」
である(仝上)、とある。唐書に、
「洛陽の人家、重陽に羊肝餅をつくる」
とある由で、唐代には、九月九日の重陽に羊肝餅をたべたのである(仝上)。
鎌倉・室町時代に、禅宗文化渡来とともに、日本に伝わった。しかし、
「獣肉食を喜ばない日本では、羊の肝ではいけない。そこで中国にある『羊羹』という料理名を用いた」(仝上)
が、その謂われには、諸説ある。
「羊肝こうが日本に伝来した際、『肝』と『羹』の音が似ていたことから混同され。『羊羹』の文字が使われるようになった。」(語源由来辞典)
「羊肝糕の糕と羹は同音であるから羊羹とした」(たべもの語源辞典)、
「羹は糕と同音なる糕というべきものも誤りて羹とかけり」(嬉遊笑覧)、
しかし、
「カンは唐音」(広辞苑)、
という説もあり、「カウ(コウ)」→「カン」の転音はあるのだろうか。さらに、獣を不潔とするので字を改めたとしても、「羊の字を変えなかったのは、どうしてだろうか」(たべもの語源辞典)、という疑問は残る。
「中国で羊の丸煮をいう羊羹に似せて作ったところから(たべもの語源抄=坂部甲次郎)、
という説が、あながち無理筋ではなく見えてくる。「羊羹」の初出は室町時代に書かれた『庭訓往来』の「点心」に、
羊羹・砂糖羊羹・筍羊羹・猪羊羹、
の名が挙がっている(たべもの語源辞典)。
「初期の羊羹は、小豆を小麦粉または葛粉と混ぜて作る蒸し羊羹であった。蒸し羊羹からは、芋羊羹やういろうが派生している。また、当時は砂糖が国産でできなかったために大変貴重であり、一般的な羊羹の味付けには甘葛などが用いられることが多く、砂糖を用いた羊羹は特に「砂糖羊羹」と称していた。だが、17世紀以後琉球王国や奄美群島などで黒砂糖の生産が開始されて薩摩藩によって日本本土に持ち込まれると、砂糖が用いられるのが一般的になり、甘葛を用いる製法は廃れていった」
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9)。
煉羊羹が最初に作られたのは、京都で、天正十七年(1589)で鶴屋(岡本善右衛門)が、
「テングサ(寒天の原料)・粗糖・小豆あんを用いて炊き上げる煉羊羹を開発し豊臣秀吉に献上した」
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9、たべもの語源辞典)。寛永三年(1626)に金沢で遠州流茶人金物屋忠左衛門が煉羊羹をつくり、宝暦年間(1751~64)に、
「(加賀藩の)十代藩主重教の江戸出府に従って、本郷の加賀下屋敷赤門に近い日影町に店を構え、『藤むら』の屋号で、ユリ羊羹など二七種つくりだす(たべもの語源辞典)。
江戸時代は煉羊羹全盛時代であり、江戸本郷の藤村羊羹をはじめ、多くの名舗が現われた
寛政の初めころ(1792)には、日本橋通一丁目横町字式部小路で売り出された「喜太郎羊羹」は評判となり、天保六年(1835)の『江戸名物詩初篇』には、鈴木越後、金沢丹後の羊羹が載っている(仝上)し、江戸後期の『嬉遊笑覧』には、
「茶の湯の口取に煉羊羹うばたまなどは紅粉や志津磨始て製す寛政の頃よりなり」
と載る(たべもの語源辞典)。煉羊羹の全盛になると、一方、
「初期の製法の羊羹(蒸し羊羹)は、安価な下物(煉羊羹の半値)になり、その一部は丁稚羊羹と称したものもある。また、料理菓子として、煉羊羹を半煉り状にした製法の羊羹もつくられ、後に水分を多くした水羊羹がつくられるようになり、御節料理として、冬の時季に食された」
ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9)。
ちなみに、羊羹を一棹、二棹と数えるのは、
「寒天を加えられたものを船型の箱に流し込んで凝結させ、これを細長く切るからで、江戸でも、大阪でもこれを棹物とよんだ」
ことによる(たべもの語源辞典)。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:羊羹