「法被」と「半纏」については、「取締り」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/416259870.html)で、三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』に触れたことがある。
捕物出役に出かけていく際、当番与力一人が,同心一人を連れて出役する。継上下(つぎかみしも)で出勤している(のちには,羽織袴に変るが)与力は,着流しに着かえ,帯の上に胴締めをし,両刀をさし,手拭いで後ろ鉢巻をし,白木綿の襷にジンジン端折り(着物の背縫いの裾の少し上をつまんで,帯の後ろの結び目の下に挟み込む)する。槍を中間に持たせ,若党二人に草履取り一人を従えているが、
「供に出る槍持は,共襟の半纏に結びっきり帯で,草履取は,勝色(かちいろ)無地の法被に,綿を心にした梵天帯を締める。供の法被は勝色で,背中に大きな紋の一つ就いたのを着ている。」
「同心は羽織袴ででておりますが,麻の裏のついた鎖帷子を着込み,その上へ芝居の四天(歌舞伎の捕手)の着るような半纏を着ます。それから股引,これもずっと引き上げて穿けるようになっています。」
という身なりである。さらに,小手・脛当,長脇差一本(普段は両刀だが,捕物時は刃引きの刀一本),鎖の入った鉢巻きに,白木綿の襷,足拵え,という格好になる。供に,物持ちがつき,紺無地の法被に,めくら縞(紺無地)か,千草(緑がかった淡い青)の股引きを穿く。
この記述から見える、与力の供の、
草履取が法被、
槍持が半纏、
同心が半纏、
同心の供の物持ちが法被、
という、法被と半纏が着分けの原則が全く分からない。
法被は、
半被、
とも当て、半纏は、
袢天、
半纏、
絆纏、
とも当てる。
「法被」(ハッピ)は、元々、
ハフヒ(法被)の音便、
とある(大言海、岩波古語辞典)。
禅家で椅子の背にかける布、
を指した。禅林象器箋に、
法被、覆裏椅子之被也、
とある。それが、
もと武家にて、隷卒(しもべ)の表衣に着する羽織の如きもの。家の標など染付く。今一般に、職人などこれを用ゐる。しるしばんてん、カンバン、
という意味をももつようになる、とする(大言海)。しかし、どうも「羽織の如きもの」に当てる「法被」は、当て字で、禅家の「椅子の背にかける」ものとは別物ではないか、と思われる。
「法被」の前史は、肩衣(かたぎぬ)であり、「法被」は、その変形らしい。
最も原始的な服として、肩から前身(まえみ)と後身(うしろみ)とを覆い、前は垂領(たりくび)に引き合わす上半身衣を、ふるくから肩衣と呼んで一般に使用され、『万葉集』にも、木綿(ゆう)肩衣・布肩衣の名称がみえている。朝廷においては、大嘗会の儀の出納の小忌衣(おみごろも)にその俤を存する他、もっぱら下層の者に用いられた。
そしてまたこの両脇を縫い塞いだものを手無しとも胴衣(どうぎ)とも称して、もっぱら労働の用とし、肩衣は主として小袖などの上にはおって、上着として用いた(有職故実図典)、とある。
(『装束着用之図』より「素襖」の図 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E8%A5%96より)
室町時代末期になると、世も乱れ、室町幕府も衰微し、恒例の行事、儀式は行えず、服装も簡略化し、もっぱら
一重革紐のいわゆる素襖(すおう)、
で用を足すようになる。しかし、袖の大形なのは行動に不便なため、時に応じては内側に深く折りたたんだが、なお面倒であることから、ついに袖付より切り離して、再び原始の形に戻り、その形象が似ていることから、
半臂(はんぴ)、
といい、
法被、
とも書いた(仝上)、とある。禅宗のいう、
法被、
とは別由来であり、別物である、と考えていい。やがて、それが、元の肩衣に復し、略式礼装として登場し、戦国武士に好んで用いられ、肩衣は、徳川時代武家の正装とされるに至る(仝上)。
この「半臂(はんぴ)」といい「法被」といったものが、江戸時代の武家社会で、今日の「法被」として出現することになる。
「武士が家紋を大きく染め抜いた羽織を着用したことが法被の始まりのようです。当時は衿(えり)を返して着用していたようですが、江戸時代の末期になり、庶民に広がると衿を返さないで着るようになった」
とある(https://kyo-ya.net/hanten/%E5%8D%8A%E7%BA%8F%E3%81%A8%E6%B3%95%E8%A2%AB%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84/)のは、少し説明をはしょりすぎのようである。
上述の三田村鳶魚の話にあるように、上級武士(たとえば与力)は羽織袴を着る。「羽織」は、
「安土桃山時代から戦国武将に戦場での防寒着として鎧の上から陣羽織が着用されるようになり、便利であったためかすぐに日常でも着用されるようになった。この頃は『羽織』という名称ではなく『胴服』といわれていた。服装の順位としては将軍へのお目見えの時に使う直垂・大紋・素襖、士分の制服ともいえる裃より下にランクされる物で、普段着の扱いであった。」
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%B9%94)。
あるいは憶説かもしれないが、陣羽織は、袖がなく、肩衣の脇を縫い閉じたものとほとんど変わらない。肩衣ではなく、陣羽織から、法被が再登場したと見えなくはない。
羽織は、室町時代後期頃から用いられたが、現在のような形の、
丈の短い、防寒・礼装などの目的から、長着・小袖の上にはおって着る、
形の羽織が一般的になったのは近世に入ってからである(仝上)。動詞「はおる」の連用形が名詞化したもので、羽織は当て字、とある(仝上)。
で、主人が、
羽織、
着用なのに対して、
仲間(ちゅうげん)や下級武士が着用したのが、
法被、
ということになる。羽織の代用という感じである。
家紋などを染め抜いたものを武家が着用し始めたのが起源、
とある(http://www.so-bien.com/kimono/syurui/happi.html)。本来の「法被」は、
襟を返して着用、
し、まさに羽織のように、
胸紐つきの単(ひとえ)だった、
ようである(https://www.hanten.jp/koeblog/diary/honzome/happihanten/)。それを職人や町火消なども着用するようになった。しかし、幕府から一般庶民に羽織禁止令が出たため、襟を返す羽織や法被の代わりに、
襟を返さないで着用する法被、
が庶民の間で普及した(https://www.hanten.jp/koeblog/diary/honzome/happihanten/)。つまり、
襟を折り返すのが羽織、
襟を返さないのが法被、
と区別し、さらに袖も、
羽織は袂(たもと)袖、
法被は筒袖、
と区別し(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%A2%E7%BA%8F)、
襟や背中に屋号や家紋を染め抜いた、襟を返さない法被、
が、
印半纏、
と呼ばれるようになる。ここに、「半纏」と「法被」が重なる要因がある。
(半纏 日本語源大辞典より)
「半纏」は、
袷(あわせ)、
であった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%A2%AB)。
由来は、「法被」とは異なり、語源は、
袖の丈が半分程しかないことから「半丁(はんてん)」となづけ、この「半」に「纏う(まとう)」の字を足して、「半纏」と書く(仝上)、
ふつうの袖の半分の幅であることから、袖のある衣服と袖なしとの間の意でいうハンテ(半手)の音便(筆の御霊)、
長さがふつうの着物の半分であることから(木綿以前=柳田國男)、
等々とされる。大言海は、
羽織に似て、…半襟など掛け、胸紐を用ゐず、賤人の用なり、ヌノカタギヌ、
とする(大言海)。「賤人の用なり」というのは、
「江戸時代、とくに18世紀頃から庶民の間で着用されるようになった。主に職人や店員など都市部の肉体労働者の作業着として戦後まで広く使用され、労働者階級を示す『半纏着(の者)』という語があった。種類については袖の形による広袖袢纏、角袖袢纏、筒袖袢纏、デザインの面では定紋や屋号などを染めつけた印袢纏などがある。印半纏は雇い人に支給されたり、出入りの職人などに祝儀に与えられることも多く、職人階級では正装として通用し、俗に窮屈羽織とも呼ばれた。」
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%A2%E7%BA%8F)ところからきている。それと今日使う、「半纏」つまり、綿入りのそれは、
「袷(あわせ、表地と裏地の二重)にしてその間に綿を入れたもので、衿は黒繻子をかけたものが一般的である。主に室内用の防寒着として用いられ、男性・女性に限らず着用される。」
という(仝上)ところから、同じ「袢纏」と称してもまったく違う用途の発祥とみられ(仝上)、「半纏」は、
実は江戸時代では庶民の間で着用されるようになった防寒着のこと、
とする説もある(https://kyo-ya.net/hanten/%E5%8D%8A%E7%BA%8F%E3%81%A8%E6%B3%95%E8%A2%AB%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84/)。実のところ、半纏の由来ははっきりしていない。
それにしても、半纏と法被の違いは、なんだろう。たとえば、「法被」を引くと、
しるしばんてん、
と載り、「半纏」を引くと、
印半纏の略、
と載り、ほとんど、法被と半纏の区別がつかなくなっている。
「法被が生まれたのは江戸時代初期の頃でした。法被は(中略)元々は羽織のひとつとして、家紋などを染め抜いたものを武家が着用し始めたのが起源とされています。その見た目は当時の一般庶民の間でも格好良いと憧れを抱く存在であったようですが、当時の身分制度の維持を図るために、身分相応以上の服装をしてはいけないという法令があり、武家よりも下の身分の者にはこの法被の着用は許されておりませんでした。
そこで作成されたのが安い袢纏です。
当時の法被は羽織と同様、襟を返すものでしたが、半纏は襟を返さず、またその法令に触れないような木綿などの素材で作られました。そのため法被の中には広袖のもの存在しますが、半纏にはそれがないのもそういった理由からのようです。そしてその袢纏は次第に庶民の生活に深く密着した普段着や作業着となっていったのです。」
という説明(https://www.gfmd2008.org/infomation/tigai.html)が、比較的推移を正確に描いている感じである。こう見ると、襟を着返さない法被が、もともとあった防寒用の半纏と重なって、印半纏になったのかもしれない。
「袢纏は逆に庶民・町民・職人を中心に日常生活で着用された。江戸時代に一般庶民は羽織禁止令が出たため、襟を返す羽織(当時の法被も襟を返して着用)の代わりに法被が形を変え、その末端で袢纏との混同が始まったようだ。」
という(https://www.hanten.jp/koeblog/diary/honzome/happihanten/)のも、そのあたりの経緯を憶測させる。
(錦絵にみる仕事着 印半纏・股引姿の大工。歌川国輝画 『衣食住之内家職幼絵解之図』http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/detail.php?no=807より)
上述の、鳶魚の説明の与力、同心の出役の出で立ちで、与力の供の、
槍持が共襟の半纏に結びっきり帯,
草履取が勝色(かちいろ)無地の法被に,綿を心にした梵天帯、背中に大きな紋、
であり、同心も、
羽織袴に,麻の裏のついた鎖帷子の上へ芝居の四天(歌舞伎の捕手)の着るような半纏、
を着ている。つまり、半纏も、法被も、ともに、武家の供の者、あるいは足軽級(同心は足軽)の武士が着ていた、とされるのは、あるいは、すでに、半纏と法被の混同が始まった後のことのように思われる。
上述のように、法被は、
「広袖もしくは筒袖で、腰~膝丈の上着で、襟を羽織のように折り返して着ます。もともとは武家の仲間や大店の下僕、職人などが、主の紋や屋号のついたものを着用しました。」
が、幕府の禁制前は、襟を返して(折って)着ていた。
「羽織禁止令が出たため、庶民は衿を返す羽織や法被の代わりに、『衿を返さないで着用する法被』を着るようになりました。それは『印半纏』とも呼ばれ、江戸の人々の生活に根付いていきました。」
とある(https://kyo-ya.net/hanten/%E5%8D%8A%E7%BA%8F%E3%81%A8%E6%B3%95%E8%A2%AB%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84/)。
しかし、敢えて勘ぐるなら、町人が、
法被、
ではなく、
半纏、
だというために、
印半纏、
と呼んだのかもしれない。半纏は、
「羽織に似るが、実生活向きに簡略化されて、腋に襠(マチ)がなく、丈もやや短めで胸紐をつけて、襟も折り返さないで、着る」
とある(日本語源大辞典)のは、そんな傍証に見えてくる。
(赤い綿入れ袢纏 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%A2%E7%BA%8Fより)
法被、半纏の区別は曖昧になっているので、たとえば、
「防寒用の『綿入り半纏』『どてら』と、襟や背中に屋号や家紋を染め抜いた『印半纏』は、基本的にまったく違う用途と文化があり、『法被=印半纏』というのが、現在の一般的な見解のようです。当社で製作している半纏は、いわゆる「法被」であり、「印半纏」です。」
と言い切るところもある(https://www.hanten.jp/koeblog/diary/honzome/happihanten/)。
参考文献;
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95