大岡昇平他編『日常の中の危機(全集現代文学の発見第5巻)』を読む。
本書は、
現代文学の発見、
と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、
日常の中の危機、
と題されている。収録されているのは、
嘉村磯多『崖の下』
井伏鱒二『かきつばた』
太宰治『桜桃』
高見順『インテリゲンチァ』
武田泰淳『「愛」のかたち』
田中英光『野狐』
小山清『落穂ひろい』
椎名麟三『神の道化師』
島尾敏雄『死の棘』
安岡章太郎『海辺の光景』
庄野潤三『プールサイド小景』
小島信夫『返照』
永井龍男『青梅雨』
梅崎春生『幻化』
である。しかし、解説の松原新一も言うように、大半が正常成らざる男女関係のもつれを扱うのである。それを日常の中の危機ではないとは言わない、しかし、どこかずれている気がする。日常の中の危機が、本書の帯のフレーズのように、
足元にひらく亀裂、
なら、普通に歩いていたら砂の穴に押し込められた(砂の女)、突然棒になった(棒)、目が覚めたら虫になっていた(変身)、といったたぐいの、
ただ普通に生活していたのに、いつの間にか迷路に踏み迷った、
突然発病して、見える世界が変わった、
理不尽にある日逮捕された、
冤罪で置換と名指しされた、
等々、といったありきたりの生活と思ったものが、いつの間にか、本線から引き込み線に、あるいは脱線に、陥ることではないか、という気がする。
もし、不倫が、危機というなら、不倫自体ではなく、ちょっとした浮気心で崩壊した普通の家庭、という意味で、
死の棘、
は、もっともありうる「日常の中の危機」に違いない。子供たちが、カテイノジジョウという「夫婦の葛藤」の中で、子供たちが荒れていくさまが、既に危機である。
「『ウチデハ、オトウシャンハオカアシャンヲオコラナイノニ、オカアシャンハオトウシャンヲオコッテバカリイル。ソンナオトウシャンハ、キライニナッチャオカナ』マヤは父親をまっすぐに見てそう言い、父親の私は伸一が近所の遊び友だちのあいだで荒れて行くすがたが目に残ってはなれない。
伸一が、いきなり大きな叫び声を出し、小石をつかんでふりあげると、とりまいていた年上のこどもらが一目散に逃げ出し、それを路地の奥の方に追いこんだあと、つかんだ小石をそのあたりの塀になげつけながら、戻ってくるひとりぼっちのすがた。「親がカテイノジジョウをすると、おかあさんが逃げないかしんぱいで、けんかに負ける」とませた口をきいた伸一。」(死の棘)
あるいは、
「青木氏の家族が南京はぜの木の陰に消えるのを見送ったコーチの先生は、何ということなく心を打たれた。
『あれが本当にせいかつだな。生活らしい生活だな。夕食の前に、家族でプールで一泳ぎして帰ってゆくなんて……』」(プールサイド小景)
という青木氏の家庭は、夫が会社の金の使い込みで会社を馘になり、二週間分の生活費しかないのである。
「起こった事を冷静に見てみれば、これは全く想像を絶したことではないのだ。給料では、自前で飲むにしてもたかが知れているのだ。それを何となく安心して、一度も疑ってみたことのない自分の方が、迂闊であね、
夫の方にしてみても、大事に到るとは思ってもみなかったのだろうが、そういう風に物事を甘く見るところに、既に破綻が始まっていたのだ。本当に埋め合わせる気があれば、何とかできた金額である。」(仝上)
危機のさなかを、しかし、深刻ではなく、どこか突き放したように、逆に言うと、高をくくっている感じの夫婦の様子が、危機の深刻さを、ひとごとに見ている雰囲気を、よく出している。妻は、偽装出勤の夫について、
「(……夫は帰ってくるだろうか。無事に帰って来てくれさえすればいい。失業者だって何だって構わない。この家から離れないでいてくれたら……)」(仝上)
と、 気遣うのである。そんな突き放した感覚は、妻の死の後、後添えをもらうかどうかの話に終始する『反照』にもある。危機を危機と感ずるかどうかは感性だが、当人がどこかひとごとに見ている雰囲気というのは、人から見ると、確信犯に見える。
「あなたはどんな女が来ても、けっきょくおんなじじゃないのかな。そのことをあなたは、自分で知っているんですよ。その女が気に入らなければ、かえってあなたは、やっぱりそうだった、そうだったと手を打っていいますよ。あなたがもともとそうなのか、途中からそうなったのか、僕には分からないが、やがてあなたは吹聴しますよ。(略)」
『青梅雨』は、一家心中の記事(?)の、
「十九日午後二時ごろ、神奈川県F市F八三八無職太田千三さん(七七)方で、太田と妻ひでさん(六七)養女の春枝さん(五一)ひでさんの実姉林ゆきさん(七二)の四人が、自宅六畳間のふとんの中で死んでいるのを、親類の同所一八四九雑貨商梅本貞吉さん(四七)がみつけ、F署に届けた。」
その夜を描く。しかし、危機というよりは、危機の決算というかんじではあるまいか。『幻化』は、神経を病んで入院先から脱走した主人公の、戦時中駐屯した鹿児島への旅を描く。確かに、戦争の心の傷を描く。しかし、これを日常の中の危機と括っていいのだろうか。ちょっと違和感がある。それは、『かきつばた』の、原爆投下後の異変についてもいえる。戦争下の話で、やはり、僕には、「日常の中の危機」とはずれる感じがしてならない。『神の道化師』も、父母の離婚で、世間に放り出された少年の苦労だが、やはりこのテーマの中に入れるのは、無理があると思う。
嘉村磯多『崖の下』
高見順『インテリゲンチァ』
武田泰淳『「愛」のかたち』
田中英光『野狐』
島尾敏雄『死の棘』
と、男女間の葛藤を描くものは、確かに、日常の中の危機といえばいえるが、僕には、これも少しずれている気がしてならない。これが過半を占めるというのは、選の間違いというより、我々は、眼下の日常の危機を描く作品(『変身』や『審判』)を、いまだ手元に持っていない、ということの表れのような気がする。
なお、太宰については、「太宰」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451454488.html)で触れたが、同じ理由で、『桜桃』は買わない。
参考文献;
大岡昇平他編『日常の中の危機(全集現代文学の発見第5巻)』(學藝書林)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:危機