2019年12月27日
信長殺害
金子拓『信長家臣明智光秀』を読む。
本書の特徴は、第一に、
信長家臣、
とタイトルにある通り、まず、はっきりしない、信長に仕える以前の、
「前半生のには謎が多く、出自や信長に仕えるまでの経歴がわかるような良質な史料はほとんど残っていない」
部分には踏み込まないことだ。光秀討死の報を聞いた、奈良興福寺の塔頭多聞院主英俊が、
「惟任日向守ハ十二日勝竜寺ヨリ逃テ、山階ニテ一揆にタタキ殺サレ了、首ムクロモ京ヘ引了云々、浅猿々々、細川ノ兵部大夫ガ中間ニテアリシヲ引立之、中國ノ名誉ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩致曲事、天命如此」
と切り捨てた多聞院日記に。
細川ノ兵部大夫ガ中間、
つまり細川藤孝の家臣であったということ、あるいは、「永禄六年(一五六三)諸役人付」(光源院殿御代当参衆幷足軽以下衆覚)に、
足利義昭の足軽衆の一人、
として明智の名がある、という程度にしか、前半生はわかっていないのである。
第二の特徴は、
明智光秀と吉田兼見、
と、一章を設けて、吉田神社の吉田家当主との関係を掘り下げたことである。吉田兼見は、細川藤孝の従兄弟に当たる。
本能寺の変当日、兼見は、六月二日、
「本應寺・二条御殿等放火、洛中・洛外驚騒畢、悉討果、未刻大津通下向、予、粟田口辺令乗馬罷出、惟日対面、在所之儀万端頼入之由申畢」
と、惟日(惟任日向守、つまり明智光秀)に会いに出かけている。後に、やばいと思ったのか、粟田口辺にまで赴いて光秀と対面した部分を削除し、こう他所事のように書き換えた。
「戊子(つちのえね)、昊天(ごうてん)當信長之屋敷本應寺而放火之由告來、罷出門外之処治定也、卽刻相聞、企惟任日向守謀叛、自丹州以人數取懸、生害信長、三位中将為妙覺寺陣所、依此事取入二条之御殿、卽諸勢取懸、及數刻責戦、果而三位中将生害、此時御殿悉放火、信長父子・馬廻數輩・村井親子三人討死、其外不知數、事終而惟日大津通下向也、山岡館放火云々、右之於二条御殿双方乱入之最中、親王御方・若宮御两三人・女中各被出御殿、上之御殿へ御成、中々不及御乗物躰也」
しかし、兼見と光秀の関係は、ただならぬものがある。三日、四日、近江を抑えた光秀は、五日に安土城に入り、八日京へ戻る。兼見は、日記に、
「八日、甲午、早天發足安土、今日日向守上洛、諸勢悉罷上、明日至攝州手遣ひ云々、先勢山科・大津陣取也、
九日、乙未、早々自江州折帋到来、唯今此方へ可來之由申了。不及返事、飛脚直出京、即予為迎罷出白川、
未刻上洛、直同道、公家衆・攝家・清華、上下京不殘為迎至白川・神楽岡邊罷出也。向州云、今度上洛、諸家・地下人礼之義堅停止之由被申、於路次對面勿論、於此方無對面之義也、次至私宅、向州云、一昨日自禁裏御使忝、為御礼上洛也、随而銀子五百枚進上之由、以折帋予に相渡之、卽可持参候由申訖、次五山之寺へ百枚充各遣之、大徳寺へ百枚、予五十枚、為當社之御修理賜之、五山之内依不足、賜予五十枚之内廿枚借用之、次於小座敷羞小漬、相伴紹巴、昌叱、心前也、食以後、至下鳥羽出陣」
とある。この関係は、ちょっと不思議であった。本書で、光秀は、兼見の父兼右とも懇意な関係にあり、それが兼見とも続くことを解き明かす。兼見室のきょうだいである、佐竹出羽守は、光秀に従い、
「『明智』の名字と『秀』の諱を許され、明智秀慶と名乗った」
ともある。光秀の年齢は、
五十五歳、
五十七歳、
等々があるが、『当代記』には、
六十七歳、
とする。吉田兼右との親交について、
「光秀はもともと兼見の父兼右と親交があった…。実は兼右は、永生十三年生まれなのだ。光秀六七歳説を採ると、まったくのおない年ということになる」
と、このことは、光秀の没年齢とも関わってくる。
第三の特徴は、「本能寺の変」という言葉を使わず、「あえて即物的に」
信長殺害事件、
としたことだ。ここで、この件は、
歴史的事件、
としてよりは、
個人的事件、
としての含意を持たせたのだと、僕は推測する。それは、殺害動機と絡んでくる。著者は、
「結論から先に述べておこう。
最近特に注目されるようになってきた、信長の四国政策転換(長曾我部氏の処遇)問題や、美濃稲葉氏と光秀の間に起きた斎藤利三・那波直治の召抱えに関する確執といった、天正十年になってから起きた光秀の活動に深く関わることがらについて、信長とのあいだに生じた思惑のすれちがいを根底に、それが原因となったらしい信長による光秀の殴打、さらに秀吉支援のための出陣命令による家康饗応役の突然の変更が直接のきっかけとなり、面目をつぶされた光秀が信長を討った、というものである。」
と、動機を書く。詳しくは本書を読んでいただくしかないが、
四国政策の変更は五月七日、
饗応役を解かれて出陣命令は五月十五日前後、
斎藤利三・那波直治の召抱えの裁定は五月二十七日、
と続く。
召抱え問題では、那波直治を稲葉家に戻し、利三は切腹させるというものである。光秀が承知せず、
「髪束をつかみ、膝本へ引きよせ、頭を二つ三つはり給いし」
とある(宇土家譜)。この件は、
「有力家臣同士の紛争にあたり、信長が双方を納得させる裁定を下せなかったのは、体系的な国法をもたず、彼の上意がすべてを優先する政治のあり方に問題があった」
帰結でもある。ひとつひとつは些細なことだが、光秀の面目失墜の積み重ねが、爆発した、という見方である。
変の後、勅使として安土城へ赴いた兼見は、光秀と面談するが、日記に、
今度謀叛の存分雑談(ぞうだん)なり、
と記した。
「『雑談』とひと言で片づける程度の、たいした動機ではなかったのかもしれない」
と著者は書く。細川藤孝に宛てて協力を求めた手紙では、
不慮の儀、
と書く。特段の大義名分がなかった証かもしれない。
本能寺の変、
と書くより、
信長殺害事件、
と書くことで、かえって事は見やすくなったのかもしれない、という気がする。
光秀については、
「謀叛」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/399629041.html)、
「光秀」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/469748642.html)、
でも触れたことがある。
参考文献;
金子拓『信長家臣明智光秀』(平凡社新書)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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