2020年01月02日

らくがん


「らくがん」は、

落雁、

と当てる。本来の意味は、

空から舞い下る雁、

の意であり、秋の季語である。

歌川広重 月に雁.jpg

(歌川広重・月に雁 空から、舞い降りる三羽の雁 https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige292/より)

大言海には、

雁の列をなして、地に下らむとすること、

とあり、杜甫の晩行口號の、

落雁浮寒水、饑烏集戍樓、

を引く。また、「落雁」には、

米などから作った澱粉質の粉に水飴や砂糖を混ぜて着色し、型に押して乾燥させた干菓子、

の意味もある。大言海は、

「支那の軟落甘(ナンラクカン)の和製のものと云ふ。乾菓子に、初めは黒胡麻を加へ、それが斑点をなすこと、落雁の如くありしかば名ありと」

と、その由来を解く。日本語源広辞典も、

「軟落甘」の軟を取り「落甘」としたもの、

とし、やはり、

「黒ごまをいれたのを、落ちる雁に見立てたもの」

とする。嬉遊笑覧にも、

中国菓子に軟落甘(なんらくかん)というものが明朝にあったと『朱子談綺(だんき)』(1708)にあり、その軟を略して落甘といったものがやがて落雁と書くことになった」

とある(たべもの語源辞典)、とか(ただ軟落甘とは、どのような菓子かはわかっていない)。

しかし、「落雁」には、

近江八景の「堅田の落雁」

にちなんでつけられた、とする説があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E6%99%AF

堅田落雁.jpg

(近江八景の「堅田の落雁」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E6%99%AFより)


因みに、近江八景とは、

石山秋月・石山寺、
勢多(瀬田)夕照(せきしょう)・瀬田の唐橋、
粟津晴嵐・粟津原、
矢橋帰帆・矢橋、
三井晩鐘・三井寺(園城寺)、
唐崎夜雨・唐崎神社、
堅田落雁・浮御堂、
比良暮雪・比良山系、

だとかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E6%99%AFに詳しい)

しかし、たべもの語源辞典は、

「一説に、もと近江八幡の平砂の落雁より出た名であり、白い砕き米に黒胡麻を点々とかき入れたのが雁に似ているからであり、形は昔州浜のさまにしたが種々の形ができたと『類聚名物考』にある。この説は、落軟甘という菓子が日本に渡ると、中国平沙の落雁を近江八景の一つ堅田落雁にこじつけて、白い砕き米に黒胡麻の散っているのを、いかにも堅田の浮身堂に向っての落雁らしくみせ、足利末期の茶道の盛んな時代であったからこれが喜ばれた」

と一蹴している。「平砂の落雁」とは、中国山水画の伝統的な画題である「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」の一に、「平沙落雁(へいさらくがん)」があり、秋の干潟に雁の群れが舞い降りる様子が描かれる。「近江八景」が「瀟湘八景」を真似たということである。

別の説もある(以下、たべもの語源辞典)。一つは、

「後小松天皇のとき、本願寺の第五祖綽如(とうにょ)上人が北陸巡遊の折、ある人が菓子一折を献じた。それが白い上に黒胡麻が散っているので、雪の上に雁が落ちてくるのに似ているとて落雁と名づけられ、当時上人からこれを天皇に奉ったところ、大変おほめのことばを賜ったということが遠近に伝わり流行菓子になった」

とする綽如上人命名説。更に他に、

「足利時代の文明年間(1469~87)のころ山城国壬生に坂口治郎というひとがいた。菓子づくりの才があって、時の後土御門天皇に献じてほめられたほどである。その子の二代目は応仁の乱の兵乱を避け、本願寺の蓮如上人に従って北国に入り、福井県吉崎に住んだが、明応年間(1492~1501)には富山県礪波郡井波に移り、(中略)天正九年(1581)以来…商人となり製菓を業とした。たまたま文禄年間(1592~96)のころ有栖川宮の命によって後陽成天皇に菓子を献じたところ、非常な御満悦で『白山の雪より高き菓子の名は四方の千里に落つる雁かな』という御歌を賜った。この菓子はうるち米を熬(い)って砂糖を混ぜ、正方形にして表面に胡麻を散らしたものであった」

という御歌から来たとする説(語理語源=寺西五郎)である。しかし、このときすでに京には落雁という菓子があったというので、菓子屋の由来書のようなもので、権威づけただけのものとみられる。

また、

「加賀名物御所落雁は茶匠の小堀遠州が意匠下ものを後水尾天皇のとき国主の小松中納言利常から献上したところ、長方形の白い地に胡麻が散っているさまを田面に落ちた雁に似てるとて落雁と勅銘を賜ったので、とくに御所の二字を冠して御所落雁と命名した」

さらには、

「表面には型模様があるが、裏面は無地なので『裏淋しい』を『浦淋しい』に通わせて、秋の浦辺を連想し、秋の空を飛んでいる雁の寂しげなことを考えて『落雁』と名づけた」

等々の六説がある、とする(たべもの語源辞典)。しかし、この他にも、

鳥の餌にもできるところから(和漢三才図絵)、

というのもある。しかし、どう考えても、菓子屋の由来書ではないかと思われる説が多く、そのコアとなる発想は、

初めは黒胡麻を加え、それが斑点になっている様を落雁に見立てたもの(類聚名物考・たべもの語源抄=坂部甲太郎)、

というものでしかない。中国由来が、さまざまに工夫されたものとみるのがいいのではないか。

落雁.jpg


落雁の製法には、

①すでに蒸して乾燥させた米(糒(ほしい、干飯))の粉を用い、これに水飴や砂糖を加えて練り型にはめた後、ホイロで乾燥させたもの、
②加熱していない米の粉を用いて、上記同様に水飴を加え成型し、セイロで蒸し上げた後、ホイロで乾燥させたもの、

二通りあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%9B%81、らしい。

しかし、

「近松や西鶴の作品では魅力的な歌詞として登場するが、現在のものとはやや違い、『御前菓子秘伝抄』(1718)には、干飯を煎り、砂糖蜜で固めたものとあるので、いわゆる『おこし』に近かったものと思われる」

とある(日本語源大辞典)。

通常は、上記の①は落雁、②は白雪糕(白雪羹)(はくせつこう。関西地方では「はくせんこ」とも)と呼ばれるものである(仝上)。

「加熱処理済の粉を砂糖で固めた日持ちのよい落雁が普及すると、熱処理していない米粉を成形して蒸す白雪糕(はくせきこう)が廃れ始めた。『和漢三才図絵』は、白雪糕といいながら、その実、落雁の製法と同じものがあることを指摘している。結局、本来の製法の白雪糕は消えてしまったが、名前だけは残り、現在でも西日本には落雁の類をハクセッコー、ハクセンコーと呼ぶ地方がある」

とある(日本語源大辞典)。その製法は、

「明時代の中国における軟落甘に基づく。これは小麦粉・米粉を水飴や脂肪で練り固めて乾燥させた菓子で、西~中央アジアに由来するといわれ、元時代に中国に伝来した」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%9B%81以上、「落雁」は、「軟落甘」の和製化ということである。

「糒(ほしい)を煎って粉にしたものを『落雁粉』とか『イラコ』とよんだ。落雁粉でつくった落雁の普及したのは享保(1716~36)である。(中略)炒種(いりだね)に砂糖・水飴などを加え、各種の形にほりつけた木型を水に塗らして、木べらで型に詰め込み、木型の型の一端をたたいてゆるめる。竹簀の上に型を裏返して移しあげ、ほいろにのせ、徐々に乾かす」

のである(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:らくがん
posted by Toshi at 05:41| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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