不慮の儀
諏訪勝則『明智光秀の生涯』を読む。
相次いで、何匹目かの泥鰌を狙って、光秀ものが上梓されている。その中で、陰謀論を主張する著者は避けたら、
「黒田官兵衛」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163528.html)、
「古田織部」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/435235025.html)、
を書いた著者のものがあったので、取り上げてみたい。
何か特徴を出さないと、ということだろうか、
「既出の史料をもとに新たな史料を加味して光秀の履歴を再検討することにした。あまり顧みられることのない文芸の側面からも光秀の立ち位置を探ってみようと思った」
と述べる。その高い素養は、
「一朝一夕に身につくものではなく、…幼い頃から、教養高き知識層の許で育ち、文芸に関する修養に努めたとみて間違いないであろう。決して低い階層の出身ではない」
その光秀の教養は、
「光秀が美濃土岐氏の文化圏にその淵源が求められると思料する。…土岐氏は、清和源氏の頼光流で鎌倉末期に土岐頼貞が美濃守護に補されてから、同国の文芸活動の中核として歴代土岐当主が牽引役を果たした。…頼貞は、玉藻・風雅・新千載・新拾遺・新後拾遺の各勅撰和歌集に入集するなど、『歌人、弓馬上手』と伝えられる。…政房の代には、中世随一の文学者である公家の三条西実隆との交流がみられるなど文芸活動が活発に行われた。(中略)また、守護代斎藤一族の文芸活動も看過できない。(中略)
かくして、美濃国において土岐・斎藤氏により文芸活動が盛んに行われ、家臣たちもこぞって嗜んだのである。」
そして光秀は、美濃出身なのである。『兼見卿記』に、
「明智十兵衛尉折帋を以て申し来りて云く、濃州より親類の方申し上ぐる也」
とあり、また、『立入左京亮入道隆佐記』にも、
「美濃国住人、ときの随分衆也」
とあり、さらに、光秀室も美濃妻木氏出身で、
「美濃出身で土岐氏の家臣であったことを補う情報といえる。また、光秀の重臣斎藤利三が美濃出身ということから、光秀も美濃国に縁があって利三との関係が成り立っていると考えて間違いないであろう」
と、著者は見る。また、『光源院殿御代当参衆幷足軽以下覚』の「永禄六年初役人附」に、足軽衆の中に、明智の名があることについて、
「足軽衆として『山口勘介・三上・一卜軒・移飯・沢村・野村越中守・内山弥五太兵衛尉・丹彦十郎・長井兵部少輔・薬師寺・柳本・玖蔵主・森坊・明智』の名が列記されている。ここにみられる『明智』を光秀に捉えて間違いないと思われる。足軽といっても、下級の武士層を指すものではない。
たとえば、山口甚介(勘介)は、諱を秀景と称し、もともと公家の葉室家の侍で、その後将軍義昭に仕えた人物である。『言継卿記』元亀元年(1570)九月二十七日条には、『武家御足軽山口甚介』と記されており、甚介のように公家に奉公するなど相応の立場の者が足軽衆に名を連ねていたことがわかる。(中略)そうなると、光秀はこれらの人々に交じって名を連ねるからには、将軍の側近になるのに相応しい資質・素性であったと思料される」
とする。「足軽」とは、
平時は雑役、戦時には歩兵となり、足軽組(足軽大将の下に鉄炮足軽、弓足軽、鑓足軽に編成)に属する最下層の武士、
である。武士というのは、主人持ちであるが、
武家の従者は、
地位の高い郎党(等)、
地位の低い従類、
に分ける。主人と血縁関係のある一族・子弟は、
家子(いえのこ)、
と呼ぶ。
家子・郎等・従類などを合わせて、
郎従(ろうじゅう)、
という。郎党(ろうどう)は相伝の所領を持たない家臣。家子は自己の所領を持ち独立の生計を営みながら、主家と主従関係で結ばれている。従類は、郎党の下の若党、悴者(かせもの)を指す。家子・郎等・従類は、皆姓を持ち、合戦では最後まで主人と運命を共にする。この下に、戦場で主人を助けて馬を引き、鑓、弓、挟(はさみ)箱等々を持つ下人(げにん)である、
中間、小者、あらしこ、
がいる。身分は中間・小者・荒子(あらしこ)の順。あらしこが武家奉公人の最下層。姓を持たない。中間の上が、悴者(かせもの)、若党(わかとう)、その上が郎党(ろうどう)となる。つまり、光秀は、最下層に近い位置にあったといえる。将軍直属の足軽衆である。いわゆる「足軽」よりは高い地位にあるとみていい。
ちなみに、同じ義昭の家臣であった細川藤孝は、
相伴(しょうばん)衆、
である。格段の差がある。
しかし、光秀は、
「美濃国で培った教養人としての素養」
があったから、朝倉氏に受け入れられたし、義昭にも受容されるだけ資質があった、と著者はみなす。たしかに、その教養は、信長にしたがって入京した直後、「中央における蓮歌会の総帥里村紹巴とその一門を中心とした」蓮歌会に参会しているのである。そこには当代最高の武家文人細川藤孝も出席している。この会で発句を詠んだのは、明院良政、信長の祐筆である。その素養を武器に、光秀が、中央文人の中に地位を占めていく、ともいえるのである。この蓮歌会の意味について、著者は、こうまとめている。
「一点目は、上洛後間もない段階において、中央文人と交流をしていることである。蓮歌を詠むためには、高い教養が必要である…。光秀は、この段階ですでに蓮歌に関する知識・技量を身につけていたことになる。朝倉氏のもとに逗留していた際には、さまざまな蓮歌会に出席していたとみて間違いないであろう。その基礎は、美濃で育ちその幼少期に育まれたと考えられる。
二点目は、信長の祐筆として、この時期に庶政に当たった良政と交流するからには、光秀も織田政権においては早い頃から相応の立場につき、職務を遂行していたことがわかる。」
いま零落しているが、それなりの素養を積める環境で育った、ということである。この点は、ある面、光秀像の一つのイメージとも重なる。光秀の出自を教養面から補強したのが、本書の特色といっていい。
さて、信長の命で、秀吉救援のために中国出陣に先立ち、光秀は、五月二十八日蓮歌を催し、有名な、
ときは今あめが下知る五月哉、
と発句を詠み、
国々はなほ長閑時、
と挙句を詠んだのは、光秀嫡男光慶である。
それにしても、この謀叛は、杜撰である。本能寺襲撃後、信忠をも殺害した直後、光秀は、
「瀬田を本拠地とする山岡景友・景猶兄弟に同心を求めるが、拒絶された。山崎兄弟は、瀬田の橋に火をつけ山中に退いたのである。光秀にとって誤算というより、最初から計画性がなかったことがわかる」
直後、細川藤孝に与同を求めた手紙を書くが、そこに、
吾等不慮の儀、
と書いた。
おもいがけない、
とか
意外、
の意である。自分で起こしながら、意外とは、とぼけているというか、随分無責任な言い条である。突発的な、あるいは発作的な決断に見える。理由はいろいろあるかもしれないが、大義名分があってのことではなさそうである。著者は、四国政策の転換を一応のきっかけとみなしている。
著者は謀叛を考えるためのキーワードを、この、
不慮の儀、
の他に、
謀叛随一、
を挙げる。『言経(ときつね)卿記』に、
日向守内斎藤内蔵助、今度謀叛随一也、堅田ニ窂籠、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六条河原ニテ被誅了、
とある、山科言経が「謀叛随一」とみなしていた、ということである。
「公家衆の記録には、『かれなと信長打談合衆也』『今度謀叛随一也』ときされていて」
公家社会では利三を首謀者としている。
当初長宗我部氏との取次をしたのは光秀である。
「光秀の重臣斎藤利三の兄石谷頼辰の義妹が長宗我部元親の性質という関係から担当したのであろう」
しかし、前年位から四国政策が変化する。「信長主導のもとに三好康長を中核として四国政策を推進」し、本能寺の変直前には、信孝を総大将とする四国侵攻が決定している。光秀は、信長の四国政策の「蚊帳の外」におかれている。この少し前、信長は老臣佐久間信盛らを突然粛清した。
「粛清には、主君として、台頭してくる者の排除と不要な家臣の処分がある。…信長は猜疑心が強く猜疑心が強いとされる。それが故、粛清と反逆が繰り返された。(中略)信長の家臣たちはそれぞれ処分されることを想定していたことは間違いない。天正八年の佐久間信盛ら主要家臣の粛清後、四国政策と秀吉の実力の伸長があり、光秀の心は動揺していたと思う。おびえていたのかもしれない。」
「計画性のない無謀な戦いを強力に推し進め、光秀の気持ちを後押ししたのは、斎藤利三ではないかと考えられる。利三としても、兄石谷頼辰を保護するためにも信長の排除が必要になったのであろう」
と推測する。是非はわからないが、その決断を促す要因に、
「洛中近辺には、光秀の軍勢以外に、織田軍の主力部隊がいない…空白の状況」
が、あった。戦国武将なら、天下取りの野望はある。これを奇禍として、不意に決断された、と見る。計画性が欠けている所以である。
本書で、もうひとつ面白いのは、光秀と秀吉を随所で比較しているところである。
「秀吉は気性が激しい信長に対して、危機を回避する対処能力に優れていた。」
とし、例えば、勝家と対立し、独断で戦線離脱し、信長に激怒されながら、
「『播磨国中、夜を日に継いで懸けまはり、悉く人質執り固め、霜月十日比には播磨表隙明申すべきの旨』と(信長公記に)記録されていて、秀吉は、播磨侵攻に際し、昼夜を分かたず奔走し、播磨の諸将から人質を集めたとある。この秀吉の尋常では考えられない迅速な活きに対して信長は秀吉を認め、播磨から一時、離れて帰国するように朱印状をもって伝えた。しかし、秀吉は、まだ働きが足りないとして但馬方面を攻め、山口岩淵の城を陥落させ、竹田城を攻略させている」
という、「猛烈な行動力のアピール」というか、パフォーマンス力は、到底光秀にはない。それは、毛利と和睦して上洛するとき、摂津の中川清秀に、
「仍ただ今、京より罷下候者慥申候、上様并殿様何も無御別儀、御きりぬけなされ候、ぜゝか崎へ御退きなされ候内ニ、福平左三度つきあひ、無比類動にて、無何事之由、先以目出度存知候、我等も成次第、帰城候状、猶追々可申承候、云々」
と、平然と信長存命の手紙で嘘八百を並べ立てていく。
「瞬時の対応には、感服せざるをえない。秀吉は行動が迅速であり、即座に何をしなければならないか分析し対応する能力に長けている」
と。すでに、山崎での合戦の前に勝敗は決していたようである。
光秀については、
「謀叛」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/399629041.html)、
「光秀」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/469748642.html)、
「信長殺害」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/472831218.html?1578548959)
等々でも触れた。他の書に比べると、本書は、書き急いだせいなのか、少々粗笨なのが目に付いたのが気になった。
参考文献;
諏訪勝則『明智光秀の生涯』(吉川弘文館)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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