大道無門
西村恵信訳『無門関』を読む。
読んだ程度で何かが会得できるわけではないし、浅学の者の生悟りが叶うわけでもない。無門は、
何ぞ況や言句に滞って解会(げえ)を覓(もとむ)るをや、
と戒めている。
通りすがりに、いくつか感じたことがある。それを書き留めておく。
大道無門、千差路有り、
此の門を透得せば、乾坤に独歩せん、
とある。しかし、
参禅は須らく祖師の関を透るべし、
ともある。そして、祖師は問う、
趙州和尚、因みに僧問う、狗子(くす)、還(は)た仏性有りや、州云く、無。
と。
如何が是れ祖師の関。只だ者(こ)の一箇の無字、乃ち宗門の一関なり、遂に之れを目(なず)けて禅宗の無門関と曰う、
そして、
平生の気力を尽くして箇の無の字を挙せよ、
と。本書の編者無門慧開(1183~260年)自身が、自著で、
老拙もまた一偈有り。諸人に挙示(こじ)せん。敢えて道理を説かず。若し也(ま)た信得及(しんとくぎゅう)し挙得(ことく)熟せば、生死(しょうじ)岸頭(がんとう)に於いて大自在を得ん。無無無無無、無無無無無。無無無無無、無無無無無」
と書いているように、この「無」の字に苦しんだ、とか(本書解説)。無門は、
狗子仏性、全提正令、
纔(わずか)に渉れば、喪身失命せん、
と曰う。有無どちらかに偏ることを嫌うと見た。
本書には、四十八の公案が載るが、その多くは、答えを出そうとしても出せない。般若心経の、
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、
ではないが、一種矛盾、二律背反の中に、答えを求めるものが多い。
声、耳畔(にはん)に来るか、耳、声返(しょうへん)に往くか、(中略)若し耳を将(も)って聴かば応に会し難かるべし、眼処に声を聞いて、方始(はじ)めて親し。
語黙離微に渉り(語れば微に陥り、黙すれば離に陥る)、
口を開けば即ち失し、口を閉ずれば又喪す、
是れ風の動くにきあらず、是れ幡の動くにあらず、是れ心の動くにあらず、
即心即仏、非心非仏、
是れ一か是れ二か、
語黙対せざれ、
言、事(じ)を展(の)ぶること無く、語、機に投ぜず、
言を承(う)くるものは喪し、句に滞(とどこお)るものは迷う、
有語なるを得ず、無語なるを得ず、速かに道(い)え、速かに道え、
你(なんじ)に拄杖子(しゅじょうす)有らば、我你に拄杖子を与えん。你に拄杖子無くんば、我你が拄杖子を奪わん、
百尺竿頭に須らく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし、
等々。この中では、「百尺竿頭」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/426438375.html)で触れた、
百尺竿頭に坐する底の人、然も得入すと雖も、未だ真を為さず。百尺竿頭に須らく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし、
が、強く心に残る。理屈ばっているせいかもしれない。
心は是れ仏ならず、智は是れ道ならず、
といい、
若し心を認(と)めて決定(けつじょう)すれば、是れ仏ならず、若し智を認めて決定すれば、是れ道ならず、
というとある。無門の言う、
是れ一か是れ二か、
つまり、
一でもあり、二でもある、
ということは理屈ではない境地なのだろう。ちょっと僕には分からない。
ところで、
雲門、因みに問う、如何なるか是れ仏。門云く、乾屎橛。
という乾屎橛は、通常、「べらぼう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/421256499.html)で触れたように、クソ掻き箆とされてきたが、本書では、棒状のまま乾燥したクソそのものをいう、としている。たいして意味は変わらないが。。。
参考文献;
西村恵信訳『無門関』(岩波文庫)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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