2020年01月30日
尖端
大岡昇平他編『青春の屈折下(全集現代文学の発見第15巻)』を読む。
現代文学の発見、
と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、
青春の屈折、
と題された、二分冊の後半である。収録されているのは、
野間宏『崩壊感覚』
武田泰淳『異形の者』
井上光晴『ガダルカナル戦詩集』
久坂葉子『ドミノのお告げ』
安岡章太郎『ガラスの靴』
中村真一郎『天使の生活』
吉行淳之介『驟雨』
石原慎太郎『処刑の部屋』
深沢七郎『東京のプリンスたち』
大江健三郎『叫び声』
山川方夫『愛のごとく』
黒田三郎『ひとりの女に』
岸上大作『意志表示』
寺山修司『田園に死す』
大島渚『青春残酷物語』
である。戦前にほぼ、十八、九歳以上であったものと、それより若かったものとでは、たぶん格段の差が出る気がしている。戦争体験のあるものとないものとの差、と言い換えてもいい。
野間宏『崩壊感覚』
武田泰淳『異形の者』
井上光晴『ガダルカナル戦詩集』
に、
安岡章太郎『ガラスの靴』
中村真一郎『天使の生活』
吉行淳之介『驟雨』
を加えた、戦後派作家と、いわゆる第三の新人を一つにくくるのは、乱暴かもしれないが、1930年前後生まれが画期に思える。それ以降の、
大江健三郎『叫び声』
山川方夫『愛のごとく』
石原慎太郎『処刑の部屋』
とは格段に作風が変わると見えた。後世になってみると、そう見える。そして、
大江健三郎『叫び声』
が、数段に、頭抜けている。明らかに、健三郎が、日本文学の新しい地平を切り開いている、ということが、こうして同時期の、他の作家と比べてみると歴然としていることに、僕は驚いた。若い頃、この文体が苦手で、難渋した記憶がある。しかし、今日、改めて読み直してみると、この文体が、時代を切り開き、今やこういう表現が、当たり前になってしまっている、ということにも気づかされる。それほど、この文体もまた、画期であった。
他の作品と比べてみると、はっきりしているが、たとえば、
山川方夫『愛のごとく』
石原慎太郎『処刑の部屋』
と比べてみても、作品世界の構造の大きさ、奥行き、射程の長さ、すべてにおいて、そのスケールが全く違う。他の作品、
山川方夫『愛のごとく』
は、ちょっと例外として、今日、それを読んでもほとんど感動もしない。むしろ、古さを覚える。しかし、
大江健三郎『叫び声』
は、朝鮮戦争前後という時代背景を別にすれば、その内容は、いまだ、今日の日本の状況をも射止めている。射程の長さとは、そういう意味だ。
ダリウス・セルベゾフ(癲癇を病むアメリカ人退役兵)、
虎(日系移民とアフリカ系アメリカ人との混血)、
呉鷹男(日本人と在日朝鮮人の混血)、
僕(日本人の大学生)、
という人物構成そのものが、何かを象徴し、その関係性は、今日の日本をも射抜いている。小説とは、
何を描くか、
ではなく、
どう描くか、
とは、文学の方法(作法ではない)を指す。明確な方法意識のある作家とそうでない作家との差は、時間がすっかりそのメッキを洗い流してくれるという見本のように思う。ただ、第四章だけ、「僕」という語り手を外しているように見える。それだけ呉鷹男をクローズアップしたいという意図かと思うが、結構を崩したようで、ちょっと気になった。
石原慎太郎『処刑の部屋』
大島渚『青春残酷物語』
は、よく似た内容の作品だが、懸命に時代に追いすがろうとするように見えて、あまり好ましくない。石原慎太郎は、いつか時代に取り込まれ、大島渚は時代に追いつかれ、追い抜かれ、晩年の、
愛のコリーダ(1976年)、
愛の亡霊(1978年)、
御法度(1999年)、
は、時代の背中を見ているような位置にいることに気づいていない滑稽さがあった。
山川方夫『愛のごとく』
については、「古井論」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm)で触れたことがある。
参考文献;
大岡昇平他編大岡昇平他編『青春の屈折下(全集現代文学の発見第15巻)』(學藝書林)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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