「柱」は、「柱」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473416760.html?1580761859)で触れたように、
材を垂直に立てて建築物の支え(ささえ)としたもの、
だが、用途、場所、役割によって呼び名が異なる。例えば、
床の間に使う装飾的な柱を床柱、門を支えるものを門柱、
塀を支える柱を控柱、
大壁を真壁に見せかけるための付け柱、
等々(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1)。家の中心となるような太い柱は、
大黒柱、
と呼ばれるが、
大極柱、
とも当てる(仝上)。ただ、大言海は、
大國柱か。古事記、二祖国生「行廻逢是天之御柱」、神代紀「國中之柱、云々、國柱」とあり、大極柱は牽強なるべし、
とし、
大國柱、
とあてている。しかし、
「宮城を造営する際、君主が世界を支配するために天(神)と繋がる中心点が重要であるとして太極殿を建てた。当時を模して建てたものの代表的なものに、平安神宮外拝殿がある。 太極(中心点)が、万物の根源、陰陽の根源とつながるものと考えられ、万物には当然のごとく神が宿ることから、そこに建てる重要な柱を太極柱と呼ぶことになる」
ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1)ので、まさに、その目的、位置などによって名を変えているようである。で、
「地方によっては、大国主の神をお祀りすることから大黒柱ともいい、太い柱を大黒柱と一概にいうわけではない」
ともある(仝上)。
しかし、「大黒柱」は、
家の中央にあって、最初に立てる柱、
であるので、
建初(たてぞめ)柱、
ともいう、とある(広辞苑)。あるいは、神社などでは、
心(しん)の御柱(みはしら)、
という(大言海)。
「日本の神が、木や柱を依り代(よりしろ)とするため、神が依り憑く神籬(ひもろぎ)としている」
故である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1)。
しかし、次第に、広く、民家の、
土間と床上部の間の境にある太い柱(広辞苑)、
家の上がり端の中央、土間・表・内の三合に立つ一番太い柱(岩波古語辞典)、
家の中央に立つる甚だ太き柱(大言海)、
土間と床上との境目の中央にある最も太い柱(ブリタニカ国際大百科事典)、
土間と座敷の境の中央に立てる。上棟の時に最初に立てる柱とする所もある(百科事典マイペディア)、
土間と居室部分の境目の中央にあって,他の柱より特に太い柱を指す(世界大百科事典)、
土間と床上部分との境の中央の柱、田の字型間取りの場合、中央の交差点に建つ柱をいう(日本大百科全書)、
等々を指すようになり、言い方は多少違うが、
土間と座敷の境に立つ柱、
のようである。
此の柱より棟梁始む、
ものらしい(大言海)。別に、
役柱、
中柱、
亭主柱、
等々と呼ばれる。それをメタファに、
家や組織の中心になって支えている人、
を、
一家の大黒柱、
などという(仝上)。しかし、
古くは構造上も重要な意味をもったと考えられるが,現在は長柱ではなく,棟(むね)にも達しない場合が多い。家の象徴とされ,正月の繭玉を飾るのもこの柱である、
とあり(百科事典マイペディア)、ほぼ象徴的なものに変わっている。
「大黒柱」の語源は、上記からも、
朝堂院の正殿「大極殿(だいこくでん・だいごくでん)」の柱を「大極殿柱」ということから『大極柱』になった、
室町時代から恵比寿大黒の大黒様は富を司る神様として祀られていたため、大黒天にちなみ『大黒柱』となった、
国の中の柱という意味の『大国柱』の『大国』が転化し、『大黒柱』になった、
等々とする説ある(語源由来辞典)。
(江戸時代の民家の大黒柱 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1より)
三代実録に「元慶二年始竪大極殿柱」とあるので、
大極柱、
とする説(類聚名物考)、
この柱をもとに棟梁を定めるところから、タイキョクハシラ(太極柱)の義(東牖子・言元梯)、
とする説が目に付くが、決め手はない。ただ、
太極、
は、『易経』の、
易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず、
に由来し、
万物の根源であり、ここから陰陽の二元が生ずる、
という意味がある。中国由来の太極殿(だいごくでん・だいぎょくでん)の意味とも重なり、最もあり得るが、後の付会ということもあって、定めがたい。
「大黒」は、
大黒天、
の意であるが、大黒天は、
マハーカーラ(摩訶迦羅)、
ヒンドゥー教のシヴァ神の異名であり、これが仏教に取り入れられたものであり、
鬼人を降伏させる守護神、戦闘神として、忿怒の相であらわされていた(日本昔話事典)。
(大黒天(マハーカーラ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%A4%A9より)
それが中国では、
厨房の神、
として寺々に祀られていた。わが国には、この系統を継いで、平安時代初期より天台宗の寺院を中心に厨房に祀られるようになる(仝上)。その姿は、
頭巾をかぶり、小槌を握って大袋を背負い、足下に米俵を踏んで福徳円満の相、
となっている。中世以降、語音の共通から、
大国主神、
と習合がなされた(仝上)。
「大黒の『だいこく』が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は『大国主命(おおくにぬしのみこと)』の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される。」
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%A4%A9)。
七福神に加えられ、大黒信仰が広まったのは、大黒舞と呼ばれる門付け芸人たちが、正月に大黒の姿にやつして祝言を述べ歩くとともに、家々にお札や大黒像や面を配り、家々に大黒が単独で祀られるようになった、とある(日本昔話事典)ところからも、中世以降であることを考えると、やはり、
大黒柱、
と当てたのは、後のことと思われる。だから由来は、
中心の柱、
という意味の、
太極柱、
かと思われる。ただ、民間での建築として、
大黒柱、
を立てたとき、建てた側の意識は、
太極、
だったのか、
大黒天、
だったのかは、ちょっと定めがたいが、
福、竈、飲食を司る大黒天を、家屋を支える最も重要な柱、
としていた可能性は大きいのである(日本語源広辞典)。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95