2020年02月13日
壮大な思考空間
I・カント『純粋理性批判』を読む。
壮大な認識プロセスについての仮説といっていい。とうてい自分のような浅学、浅薄な輩の及ばぬ世界で、すべてを理解するのは、手に負えない。当たり前だが、あくまで、自分の中に残った感想に留まるほかはない。
たしか、ゲーテが、
われわれは知っている物しか目に入らない、
といった。この、知覚したものを、
表象、
といい、これを現実ではなく、
現象、
と、カントは言った。
「つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物――換言すれば、現象としての物だけである」
ここから、人の認識プロセスの、
感性→悟性→理性、
の奥行きを徹底的に点検していく。
「感性によって我々に対象が与えられ、また悟性によってこの対象が考えられ」
「理性によって対象とその概念とを規定する」
あくまで、
実在、
ではなく、心の中の認識プロセスに徹頭徹尾貫徹していくところは、呆然、唖然、慄然とするしかないほどである。
「私がここに言う(純粋理性批判の)批判は、書物や体系の批判ではなく、理性が一切の経験にかかわりなく達得しようとするあらゆる認識に対して、理性能力一般を批判することである。」
と「序文」で述べている。批判とは、
純粋理性批判の法廷、
である、と。
ゲーテの言う、
知っている物しか目に入らない、
あるいは、さらに、誤解を恐れずに言うなら、
知っている物しか目に入らないことを知っている、
ことをも、カントは、
ア・プリオリ、
という。
「経験そのものが認識の一つの仕方であり、この認識の仕方は悟性を要求するが、悟性の規則は、対象がまだ私に与えられない前に、私が自分自身のうちにこれをア・プリオリに前提していなければならない。そしてかかる悟性規則はア・プリオリな悟性概念によって表現せられるものであるから、経験の一切の対象は、必然的にかかる悟性概念に従って規制せられ、またこれらの概念と一致せねばならない」
「つまり、我々が物をア・プリオリに認識するのは、我々がこれらの物のなかへ、自分で入れるものだけである」
からである。もちろん、
「私の感官に関係するような物が私のそとにあるということの意識は、私自身が時間において規定されたものとして存在しているという意識と同様に確実だということである」
が。
では、そうした内的プロセスで、
「悟性および理性は、一切経験にかかわりなしに何を認識し得るか、またどれだけのことを認識できるか」
が、本書の主要な問題であると、カントは述べる。ちなみに、カントの言う、
経験、
は、
「対象は我々の感覚を触発し或いはみずから表象を作り出し或いは我々の悟性をはたらかせてこれらの表象を比較し結合しまた分離して感覚的印象という生の材料に手を加えて対象の認識にする、そしてこの認識が経験といわれるのである」
と、つまり、
「認識は、すべて経験をもって始まる」
のである。
そして、対象を認識するというのには、
直観によって対象が与えられ、
悟性概念によって対象が、考えられる、
「即ち認識には、二つの要素が必要なのである」
と、そして、
「我々は、カテゴリーがなければ、対象を思惟することができない。またこの概念即ちカテゴリーに対応する直観によるのでなければ、思惟された対象を認識することができない」
と。ちなみに、ア・プリオリなカテゴリーとして、「分量」(単一性・数多性・総体性)、性質(実在性・否定性・制限性)、関係(付属性と自存性・原因性と依存性・相互性)、様態(可能・不可能、現実的存在・非存在、必然性・偶然性)を、アリストテレスに倣って、名付け、
かかる概念が経験を可能にする、
としている。ただし、
「純粋悟性概念は、常に経験的にのみ使用せられ得るものであり、決して先験的には使用せられ得ない」
とある。この場合、「先験的使用」とは、「この概念が物一般即ち物自体に適用されること」であり、「経験的使用」とは、「この概念が現象だけに適用されること」であり、
「悟性がア・プリオリになし得るのは、可能的経験一般の形式を先取的に認識することだけである――また現象でないものは経験の対象になり得ないから、悟性は感性の限界、つまりそのなかでのみ我々に対象が与えられるところの限界を踏み越えることはできない、ということである。悟性の諸原則は、現象を解明する原理にすぎない」
と。そして、規則を用いて現象を統一する、
「悟性の諸規則を原理のもとに統一する能力」
が、理性になる。理性は、
直截に経験やまたなんらかの規則を原理をもとに統一する能力、
である。当然対象ではなく、悟性と関わる。理性は、
推理の能力、
なのである。
「およそ推理には、理由となる一個の命題(大前提或いは大命題)と、これから引き出されるいま一個の命題(小前提或いは小命題)即ち推論があり、最後にこの推論の結果(理由と帰結との関係、結論)がある、そしてこれによって第二の命題(小命題)の真が第一の命題(大命題)の真と必然的にむすびつくのである。」
悟性の推理の場合、
「推論された判断が、第一の命題にすでに含まれていて、この判断が第三の概念(媒概念)によって媒介されなくても、第一の命題から導出される」
のに対して、理性推理の場合、
「結論を出すために、理由となる認識(大前提)のほかに、なお別の判断(小前提)を必要とする」
つまり、
三段論法、
を要する。つまり理性概念は、
推理によって得られた概念、
であるために、
正しい推論らしく見せかけて忍び込んだ、
詭弁的概念、
に陥る危険がある。
「理性の固有な原則は、一般に、悟性の制約された認識に対して無制約的なものを見出し、これらによってその統一を完成することである。だから、理性は無制約的なもの、すなわち原理の能力ではあるが、しかし対象と直接関係せず、悟性とその諸判断とのみ関係するから、その活動はあくまで内在的でなければならない。もし……認識の現実的な対象にまで高めようとするならば、それは悟性の概念を無制約的なものの認識に適用することによって。超越的となる」(シュヴェーグラー)
のであり、カントは、無制約的な推理には、論理学の、
定言的推理、
仮言的推理、
選言的推理、
から導き出して、
心理学的、
宇宙論的、
神学的、
と三つの理念に分ける。これは、「我々の表象のもち得る」関係が、
主観に対する関係、
現象における多様な客観に対する関係、
あらゆる物一般に対する関係、
であるが、この表象の綜合的統一をこととする理念は、
思惟する主観の絶対的(無条件的)統一を含み、思惟する主観(「私」)は心理学の対象、
現象の条件の系列の絶対的統一を含み、現象の総括(世界)は宇宙論の対象、
思惟一般の一切の対象の条件の絶対的統一を含み、物(一切の存在者中の存在者)は神学の対象、
とする理性推理に分野分けする。そして、その誤謬を、心理学の、
「私は多様なものをいささかも含んでいないような主観という先験的概念からこの主観そのものの絶対的統一を推論する。しかしこのような仕方では、私はかかる主観に関して如何なる概念も持ち得ない」
ので、この種の推理を、
先験的誤謬推理、
といい、宇宙論の、
「与えられた現象一般に対する条件の絶対的全体という先験的概念の設定を旨とするものである。そして私は、一方の側の系列の無条件的、綜合的統一について自己矛盾する概念を持つところから、これに対立する統一のほうが正当であるという推論をする。しかしそれにも拘らず私は、この統一についてなんら知るところがなく、従ってなんの概念ももち得ない」
という推理を、
アンチノミー、
といい、神学の、
「私に与えられ得る限りの対象一般を考えるための条件全体から、物一般を可能ならしめるための一切の条件の絶対的、綜合的統一を推論する、――換言すれば、単なる先験的概念によっては知り得ないような物から、一切の存在者中の存在者というようなものを推論する。しかし私は、超越的概念によってはかかる存在者を尚さら知り得ないし、またその無条件的必然にいたっては、それについてまったく知りようがない」
という推理を、
理想、
と名づける。
その詳細をここで展開しても意味がないが、この「理性」の広大な広がりに魅せられ、埴谷雄高が『死霊』を着想したのは、有名である(『死霊』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471454118.html)については触れた)。
「恐らく、思考の訓練の場としてこれほど広大な場所はないのである。勿論、この領域は吾々を果てなき迷妄に誘う仮象の論理学としてカント自身から否定的な判決を受け、そこに拡げられる形而上学をこれも駄目、それも駄目、あれも駄目と冷厳に容赦なく論破するカントの論証法は、殆ど絶望的に抗しがたいほど決定的な力強さをもっている。けれども、自我の誤謬推理、宇宙論の二律背反、最高存在の証明不可能の課題は、カントが過酷に論証し得た以上の苛酷な重味をもつて吾々にのしかかるが故に、まさしくそれ故に、課題的なのである。少なくとも私は、殆んど解き得ざる課題に直面したが故にまさしく真の課題に直面したごとき凄まじい戦慄をおぼえた」
と書いている(あまりに近代文学的な)。
僕は、誤謬推理の中で、コギト批判の部分に強く惹かれた。
我思う、ゆえに我あり、
である。ここに、
実体化、
単純化、
同一化、
物体と相互的、
の罠がある、と。
「私は、単に思惟するだけではいかなる対象も認識しない、対象の認識は、与えられた直観を意識の統一に関して想定することによってのみ可能である。そしてまたおよそ思惟は、かかる意識の統一によって成立する。それだから私は、思惟する私を直接に意識することによって、私自身を認識するのではない。私は、直観において与えられた私を、思惟の機能に関して規定されているものとして意識するときに、私を認識するのである。従って思惟における自己意識の様態は、いずれもそれ自体まだ対象に関する悟性概念ではなくて、単なる論理的機能にすぎない。しかしかかる論理的機能は、思惟に認識の対象をあたえるものではない、従ってまた私自身をも認識の対象として与えるわけにはいかない」
「われわれが思惟だけにとどまっている限り、我々は実体即ちそれ自身だけで自存する主観という概念を、思惟する存在者の自分自身に適用する必然的条件をもたない」
「『私は考える』という命題は経験的命題であり、この命題はまた『私は実在する』という命題を含んでいる。しかし私は、『思惟する一切のもの(存在者)は実在する』と言うことはできない、もしそうだとしたら。『思惟する』という特性が、この特性をもつ一切の存在者を必然的存在者にすることになるからである。従って私は私の実在を、『私は考える』という命題から推論されたものとみなすことはできない、ところがデカルトはそれができるとおもったのである」
「それだから私が思惟によって表象するところの『私』は、あるがままの私でもなければ、私に現れるままの私でもない、この場合の私は、客観を直観する仕方を度外視して、自分自身を客観一般としてのみ考えるのである」
と。「われ思う」は、自己意識である。そのことで、実体としての私の存在の証明にはならない。あくまでデカルトは、
そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない、
ところに力点を置き、自我の自立を想定していたのかもしれないが。しかし、この心の作用の実体化は、今日も根強い。「我思う」は、
「単なる意識、すなわちあらゆる表象および概念に伴ってそれらを統合し担っているところの心の作用である。この思考作用が今や誤って物と考えられ、主観としての自我が客観、魂としての自我の存在とすりかえられ、前者について分析的に妥当することが後者へ綜合的に移されるのである」
と(仝上)。この綜合的と、分析的も、カント独特の用語である。
「述語Bが主語の概念の内にすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属する」
ものを、
分析的、
といい、
「述語Bは主語Aと結びついているが、しかしまったくAという概念の外にある」
ものを、
綜合的、
という。主語Aから演繹できるものを分析的、主語Aを相対化し、俯瞰(帰納)しなくては、綜合的ではない。そこから、「我思う故に我あり」の、「我思う」に、分析的に「我あり」が含まれていなければ、「我思う」自体を相対化し、「我」の外から俯瞰しなくては、明らかにできない、というふうにも言えるのである。
参考文献;
I・カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判』(岩波文庫)
A・シュヴェークラー『西洋哲学史』(岩波文庫)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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