饅頭


「饅頭」は、

マンジュウ、

と訓むと、

小麦粉・そば粉・上新粉などを練った生地で餡(あん)を包み、蒸すか焼くかした菓子、

を指す(大辞林)が、

マントウ、

と訓むと、

小麦粉を水で練った生地を老麺(ラオミエン)と呼ばれる発酵種を用いて発酵させ、丸めて蒸した国の蒸しパン、

を指す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD、世界の料理がわかる辞典)を指し、

包子(パオズ)に対し、中に何も入れないものをいう、

とある(デジタル大辞泉)。中国料理の点心の一種になる。

日本では、「饅頭」を、

饅重、
万頭、
蛮頭、
曼頭、

とも当てる。

薯蕷饅.jpg

(上用饅頭(薯蕷饅頭) https://www.nanyoken.co.jp/fs/kuriya/c/gr62より)


日本の饅頭の起源には二つの系統があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD、とある。ひとつは、

「臨済宗の僧龍山徳見が1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)に帰朝した際、その俗弟子として随伴してきた林浄因が伝えたとするものである。当初林は禅宗のお茶と食べる菓子として饅頭を用いる事を考えたものの、従来の饅頭は肉を入れるため、代わりに小豆を入れた饅頭を考案されたと言われている。その後、奈良の漢國神社の近くに住居して塩瀬という店を立てたことから、漢國神社内の林神社と呼ばれる饅頭の神社で、菓祖神として祀られている」

とあり、もうひとつの系統は、

「1241年(仁治2年)に南宋に渡り学を修めた円爾が福岡の博多でその製法を伝えたと言われる。円爾は辻堂(つじのどう)に臨済宗・承天寺を創建し博多の西、荒津山一帯を托鉢に回っていた際、いつも親切にしてくれていた茶屋の主人に饅頭の作り方を伝授したと言われる。このときに茶屋の主人に書いて与えた『御饅頭所』という看板が、今では東京・赤坂の虎屋黒川にある。奈良に伝わった饅頭はふくらし粉を使う『薬饅頭』で、博多の方は甘酒を使う『酒饅頭』とされる」

とあるが、大言海は、

「元代の音、暦應四年、元人、林浄因建仁寺第三十五世、徳見龍山禅師に従ひて帰化し、南都にて作り始むと」

とし、語源由来辞典も、

「1349年に宋から渡来した林浄因(りんじょういん)が奈良でつくった、『奈良饅頭』が始まりといわれる」

とし、

「南都の饅頭屋宗二は、先祖は唐人なり、日本に饅頭といふ物を将来せし開山なり」

と、江戸前期の見聞愚案記にもある。たべもの語源辞典もまた、前者を採り、

「南北朝時代の初期興国年間(1340~46)、京都建仁寺の三五世徳見龍山禅師が、留学を終えて元から帰朝するとき、林和靖の末裔林浄因という者を連れて帰国した。この人が日本に帰化して奈良に住み、妻をめとって饅頭屋を開き、初めて奈良饅頭をつくった。浄因五世の孫に饅頭屋宗二(林逸)という。『源氏物語林逸抄』、饅頭屋本と呼ばれる『節用集』はこの人の著作である。宗二の孫紹伴は、菓子の研究に明に渡り、数年して帰ると、一時、三河國塩瀬村に住んでいたが、京に出て烏丸通りで饅頭をつくった。これが塩瀬饅頭である。(中略)紹伴は時の将軍足利義政に饅頭を献じたところ、将軍から『日本第一饅頭所』の看板を賜ったとされている」

とある。林和靖は、中国北宋の詩人林逋、没後に北宋の第4代皇帝仁宗により和靖先生の諡を贈られたため、林和靖とも呼ばれる、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%80%8B。塩瀬饅頭は、今日も、塩瀬総本家としてあるhttps://www.shiose.co.jp/user_data/about_history.php

室町時代の「七十一番職人歌合」の十八番「まんぢう賣」に、

「うりつくす、たいたう餅や、まんぢうの、聲ほのかなる、夕月夜かな」

とあり、同五十七番「調菜」に、

「いかにせむこしきにむさる饅頭の思ひふくれて人の恋しき、さたうまんぢう、いづれもよくむして候」

とある。この当時、

砂糖饅頭、

菜饅頭、

があったことがわかる(たべもの語源辞典、大言海)。

「後者は現在の肉まんに近い物と考えられているが、仏教の影響もあって、近在以前の日本ではもっぱら野菜が餡として用いられた。仏教寺院ではいわゆる点心(ここでは軽食や夜食)の一種類とみなされ、軽食として用いられていた」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD

「米飯や麺類が主食として存在し、とくに麺類(うどん、そば、素麺など)が早くから軽食として存在した一般社会では、製法の煩雑さなどからほとんど定着せず、甘い饅頭や麺類のように菜饅頭を専門の業者が製造する事もなかった。ただ、寺院における食事の記録には記載されている事が多く、江戸時代に入っても『豆腐百珍』に「菜饅頭」として製法が記載されている事から、寺院等では軽食として長い間食べられていたようである」

とも(仝上)。「大草殿より相伝之聞書」に、

「箸をもって食べ、汁を吸って」

と、「まんぢう」の食べ方が載っているとか(たべもの語源辞典)で、食事のお菜として食べていたらしい。

野菜餡の饅頭は人気が悪く、いつか滅び、饅頭と言えば、餡饅頭になったが、砂糖は、

「日本には奈良時代に鑑真によって伝えられたとされている。中国においては唐の太宗の時代に西方から精糖技術が伝来されたことにより、持ち運びが簡便になったためとも言われている。当初は輸入でしかもたらされない貴重品であり医薬品として扱われていた。精糖技術が伝播する以前の中国では、砂糖はシロップ状の糖蜜の形で使用されていた。
 平安時代後期には本草和名に見られるようにある程度製糖の知識も普及し、お菓子や贈答品の一種として扱われるようにもなっていた。室町時代には幾つもの文献に砂糖羊羹、砂糖饅頭、砂糖飴、砂糖餅といった砂糖を使った和菓子が見られるようになってくる。名に『砂糖』と付くことからも、調味料としての砂糖は当時としては珍しい物だということがわかる」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E7%B3%96

ため、代わりに、

甘茶、

を用いた餡を作った(たべもの語源辞典)。「甘茶」は、灌仏会(花祭り)の際に仏像に注ぎかけるものとして古くから用いられたが、

「甘味成分としてフィロズルチンとイソフィロズルチンを含み、その甘さはショ糖の400あるいは600 - 800倍、サッカリンの約2倍」

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E8%8C%B6

「『源氏物語』にある椿餅というのは甘茶を用いたもの」

であるとされる(たべもの語源辞典)。

「饅頭」は、中国の「マントォウ(man-tóu)」(北京語)に由来する。中国では、中身のあるものを、

パオツー(包子 pao-tzŭ)、

饅頭類を、

タオツー(餡子 táo-tzŭ)、

と呼ぶ(仝上)。饅頭の、

「饅は、小麦餅の類をいい、頭は、頭期(第一期)、頭等(第一等)、頭号(第一号)、頭妻は初めての妻となるように、最初の意があり、饅頭とは、宴会の最初に出る小麦餅であった。宴会の最初に出るものが主役の料理になっていた中国であるから、饅頭は重要なたべものであった」

とある。もっとも今日では、中国料理では、饅頭は最後に出すようになったらしいが(仝上)。

蒲鉾型のマントウ(手前と奥のものは包子).jpg

(蒲鉾型のマントウ(手前と奥のものは包子)  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)より)


この「饅頭」の起源は、北宋時代の『事物紀原』に、

「3世紀の中国三国時代の蜀の宰相・諸葛亮が、南征の帰途に、川の氾濫を沈めるための人身御供として生きた人間の首を切り落として川に沈めるという風習を改めさせようと思い、小麦粉で練った皮に羊や豚の肉を詰めて、それを人間の頭に見立てて川に投げ込んだところ、川の氾濫が静まったという。これが饅頭の起源とされている。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD

孔明のつくったのは、肉入蛮頭である。「蛮」(マン)は野蛮人という意味があり、同音の「饅」にしたというものである(たべもの語源辞典)。他にも、

インドにマンタ―という麦粉を牛乳で練って丸くした菓子があり、それが中国に入ってマントーとなった、
曼頭と書かれたのは、曼とは皮膚のキメがこまかくつやつやしている意であり、食べ物なので、饅の字に改めた、

といった説もある(仝上)し、

「『事物紀原』などの説が後の明代に書かれた説話『三国志演義』に収録され広く知られるようになったため、その内容を解説されることが多い。『七類修稿』では中華思想で南方の異民族を南蛮と呼ぶので、蛮人の頭を意味する『蛮頭』が語源であるとする。『因話録』では『神をだまし、本物の頭だと信じ込ませる』ことから『瞞頭』(繁体字: 瞞頭; 簡体字: 瞒头; ピン音: mán tóu、発音は同じマントウ)と最初呼ばれたという。その後、饅頭を川に投げ入れるのがもったいないので祭壇に祭った後で食べるようになり、当初は頭の形を模して大きかった饅頭が段々小さくなっていったと言われている。」

とあるが、結局流布したのは、孔明起源のようである。

この「マントウ」が、「マンジュウ」に転訛したのは、どういう経緯か。

「頭は、トウまたはヅであって、ヂュウとは訓まない」

のである(たべもの語源辞典)。一説に、

ヂウは唐音(国語の中に於ける漢語の研究=山田孝雄)、

もあるが、

「現在中国では頭トォウとよまれている。これは饅頭をマントォウとよみ、また、頭をヅとよんで、マンツといったものが、日本に入ってから訛って、マンジュウとなったものであろう」

という(たべもの語源辞典)、のが妥当なのかもしれない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

この記事へのコメント