「求肥」は、
こねた白玉粉(または餅粉)を蒸し、砂糖・水飴を加え、火にかけて練りかためた菓子、
で、柔らかく弾力がある。
「蒸したもち米を搗くことで粘りを出す餅に対し、求肥は粉にしたもち米に水と砂糖を足して火にかけて練ることで粘りを出す。生地粉に対して大量の砂糖や水飴が使用されているため(白玉粉または餅粉1に対して砂糖2、水飴1の配合が多い)、糖のもつ保水性により製造してから時間が経過しても柔らかく、食べる際の加熱調理が不要である。」
ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%82%E8%82%A5)。求肥の作り方には、
・水練り 白玉粉やもち粉に水を加えて練り上げ、次に、砂糖や水あめをプラスします。その後、加熱をしながら練っていく製法です。しっかりと練り上げることで、滑らかな食感になり、柔らかな仕上がりになります。
・茹で練り 白玉粉やもち粉をしっかり練ります。1度茹でた後に、砂糖や水あめを加えて、さらに練る製法です。
・蒸し練り 白玉粉やもち粉を1度蒸した後に、砂糖などを加えて、更に練る作り方です。水練りに比べて日持ちしやすいのが特徴、
とある(https://wagashi-season.com/%E6%B1%82%E8%82%A5/)。
「求肥」は、
求肥飴、
求肥糖、
明糖、
ともいう。もともと「求肥」は、
牛皮、
と当てた。中国から渡来したが、
牛脾、
と書き、
祭祀に用いられていたものが、牛のなめし皮のように柔らかいところから、
牛皮、
と書かれた(たべもの語源辞典)。あるいは、
昔の求肥はもち米の玄米で作られていたため浅黒く、牛の皮をなめしたように柔らかいことからの名、
とある(語源由来辞典)し、
昔は黒砂糖や赤砂糖を用いたので色が汚らしく牛皮と呼ばれ、御所ことばでは「うし」とも書かれた、
ともある(たべもの語源辞典)。だから、
牛皮、
牛肥、
牛皮飴、
と書かれた、とある(仝上)。ただ、
中国の類似の菓子で、砂糖に澱粉を加えて煮て作る飴が「牛皮糖」と呼ばれることから、日本への伝来当時は牛皮であった、
とする説もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%82%E8%82%A5)。書言字考節用集(1717年)に、
「牛脾飴(俗作)求肥、蓋牛脾、支那祭祀所用者、今制据焉」
とある(大言海)。志のぶ草に、
「求肥飴、初メテ唐より渡りし時には、牛皮と、銘有りしを、院の聞こし召しあげられし時、字を書きかふべしとの命有りて、改め給ふ」
とある(大言海)。
飴は脾腹を肥やすという意味から求肥とした、
と(たべもの語源辞典)、いう。ただ、
牛皮を求肥と書き換えたのは上杉家で、軍用食料品として保存がきくので求肥と命名した、
という説もある(仝上)。同諏のことは、
「江戸時代では上杉家が、軍用食糧品として保存が効くので、牛皮を求肥と命名したともいわれ、このころはくず粉・わらび粉・玉砂糖を 餅米粉に入れて火にかけてねり水飴を混ぜて冷やしたものだったそうです」
とある(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1317673943)。
「寛永年間(1624~44)に上使(幕府から武臣を禁廷の上す)出雲の松平越中守直政が求肥飴を召されて、江戸に変えられてから、この菓子を尋ねられたが、そのころ江戸に求肥を作る者がなかった。そこで京都から中島浄雲という京都菓子司を呼んで求肥をつくらせた。この子孫が丸屋播磨の店名で継承したので、求肥屋と称した」
とある(仝上)。
なお、江戸時代の初期には、
「葛粉・蕨粉・玉砂糖の三味を糯米粉に入れて火にかけて煉り、さらに水飴を混ぜて煉って冷ましてから菱型に切った。糯米を主材料にしたので求肥餅とよばれたが、次第に餅より飴に発達して文化・文政(1804~30)のころにはその技術は最高となり、加工品もできた。餡を求肥で包んだものは、羽二重餅といった」
という(仝上)。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:求肥