大岡昇平他編『証言としての文学(全集現代文学の発見第10巻)』を読む。
現代文学の発見、
と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、
証言としての文学、
と題された巻である。収録されているのは、
大岡昇平『俘虜記』
原民喜『夏の花』
吉田満『戦艦大和の最期』
長谷川四郎『シベリヤ物語』
藤枝静男『イペリット眼』
富士正晴『童貞』
堀田善衛『曇り日』
石上玄一郎『発作』
西野辰吉『C町でのノート』
木下順二『暗い火花』
開高健『裁きは終わりぬ』
梅崎春生『私はみた』
広津和郎『松川裁判について』
秋山駿『想像する自由』
李珍宇『手紙』
である。
開高健『裁きは終わりぬ』は、アイヒマン裁判、梅崎春生『私はみた』はメーデー事件、広津和郎『松川裁判について』は松川裁判の、それぞれ傍聴記録、証言、論証である。しかし、ノンフィクションであれ、フィクションであれ、日記であれ、見聞録であれ、いずれ、カメラで言うなら、フレームを決めた画像でしかない。フレームを決めた瞬間画像は客観的ではない。その瞬間、大なり小なり、私的パースペクティブを免れないのである。その意味で、
証言としての文学、
などというものは成り立たない。文学が、
思想の伝達手段、
でないように(プロレタリア文学をめぐる茶番で実証済み)、
事実の証言手段、
でもあり得ない。文学は、
虚実皮膜、
の時空にある。意識的に虚構を立てるのと、意識的に事実を語ろうとするのとは、程度の差でしかない。
ぼくは、どんな情報も、大なり小なりフェイク、であると思っていて、そのことは、
「言葉の構造と情報の構造」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm)
で触れた。つまり、
それがフィクションであれノンフィクションであれ、
証言であれ偽証であれ、
事実の報告であれ虚報であれ、
発信者が、事実と思っていることを、自分の観点から言語化しているにすぎない。それは、意識的に嘘を報告することと、程度の差でしかない。
事実そのものは、情報にはなり得ない。ユカタン半島に巨大隕石が落ちても、それを人が情報化するまで、それは人に伝わることはない。だが、それが情報化(フィクション化であれノンフィクション化であれ、科学レポートであれ娯楽情報であれ)されたとき、
「情報は発信者のパースペクティブ(私的視点からのものの見方)をもっている。発信された『事実』は,私的パースペクティブに包装されている(事実は判断という覆いの入子になっている)」
のである(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod092.htm)。だから、
証言としての文学、
などというタイトルは、
自家撞着、
以外の何物でもない。そのことを、本作品群が、例証している。
あとは、文学として、
虚実の皮膜、
で自立しているかどうかだけだ。事件や現実に依拠している限り、作品世界は自立していない。その意味では、
李珍宇『手紙』
は作品ではない。
収録されたものの中で、作品として、自立できているのは、
大岡昇平『俘虜記』
原民喜『夏の花』
吉田満『戦艦大和の最期』
長谷川四郎『シベリヤ物語』
藤枝静男『イペリット眼』
富士正晴『童貞』
堀田善衛『曇り日』
石上玄一郎『発作』
西野辰吉『C町でのノート』
木下順二『暗い火花』
である。突出しているのは、
大岡昇平『俘虜記』
である。ある意味で、私的フレームの中で、ひとつの作品世界を自立せしめている。戦後の出発点にふさわしい、といっていい。
石上玄一郎『発作』
も、この作家らしい構造化された作品だが、僕にはこの人がいつも作りすぎる虚構に、嘘を感じてしまう。その意味では、自立が状況に依存している、と思わせる。
長谷川四郎『シベリヤ物語』
は、独特の雰囲気を醸しだしている。シベリア抑留中の俘虜生活を描きながら、どこかメルヘンのようにふんわりした雰囲気を作りだしている。それは、作家の視点にあると思う。たしか、チャップリンが、
人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ、
といったことを思い出す。別に描写の視点が俯瞰にあるのではなく、作家の登場人物に対する距離の置き方が、ロングショットであることによる。あるいは、変な言い方だが、作家の感情は遠くにおいて、ひとごとのように、書いている。
昔々あるところに、
と同じ語り口である。悲惨さは、その距離で漉されている。
吉田満『戦艦大和の最期』
は、日記の体裁をとりながら、
片仮名表記、
と、
文語体表記、
で、一定の距離感をもち、多少情緒過多ながら、一応の日録の体裁を保ち、自立する世界を保ち続けている。しかし、『戦艦大和の最期』の、
「初霜」救助艇ニヒロワレタル砲術士、左ノゴトク洩ラス、
として、最後に追加した文章、
救助艇タチマチニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、スデニ危険状態ニ陥ル 更ニ収拾セバ転覆避ケ難ク(中略)シカモ舩ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル
ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払イ、犇ク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス……
について、
初霜短艇指揮官・松井一彦の反論や、吉田に削除を求める書簡、
があり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E8%89%A6%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%83%8E%E6%9C%80%E6%9C%9F)、また、大和乗組員の生き残り八杉康夫が、
内火艇は船縁が高くて海面に顔を出している様な漂流者の手は届かないから基本的にありえないことで、羅針儀がある内火艇に磁気狂いの原因となる軍刀を持ち込むこともありえないという。また艇にはロープが多く積まれ、引き揚げなくてもロープにつかまらせて引っ張ればいい。それに駆逐艦に救助された大和の乗組員たちは皆横瀬に軟禁され、お互いが体験したことを話し合っていたから、酷い行為があれば一遍に話題になっていたはずだが、そんな話は全くなかった、
と答えている(仝上、https://news.nifty.com/article/domestic/society/12280-535250/)し、八杉に詰問されて、吉田は「私はノンフィクションだと言ったことはない」と弁明したとされる(仝上)とか、さまざまに異論が出ている。あくまで、作家の体験に終始している限り、実名を出しているからと言って、誤解や勘違いで済む。しかし、伝聞を載せたことで、いろいろ異論が出た。ま、大なり小なり、フェイクなのは仕方がないが、この部分は、本論とは関係ない部分で、ちょっと欲を出したとしか言いようのない、蛇足である。これで、全体の印象が変わるのは、残念な気がする。
秋山駿『想像する自由』
は、李珍宇『手紙』によって、
内部の人間、
という概念の演繹をしているだけで、僕には、自閉された空間を堂々巡りしているようにしか読めなかった。始めに、「内部の人間」ありきで展開する論旨の外に、李珍宇『手紙』は、秋山の手を逃れて自立している、と見えた。
参考文献;
大岡昇平他編『証言としての文学(全集現代文学の発見第10巻)』(學藝書林)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:証言としての文学