2020年03月04日
茶坊主
「茶坊主」というのは、
室町から江戸時代、武家に仕えて茶の湯を司った剃髪の者、
とある(広辞苑)。
茶職、
茶道坊主、
数寄屋坊主(御数寄屋坊主)、
茶屋坊主、
ともいう。二代目松林伯圓の創作による講談「天保六花撰(てんぽうろっかせん)」、後に河竹黙阿弥が歌舞伎化し『天衣紛上野初花』でも、登場する河内山宗俊は、
御数寄屋坊主、
であった。強請たかりを生業にする、実在した強請りの茶坊主・河内山宗春がモデルとされる、とか(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E5%85%AD%E8%8A%B1%E6%92%B0)。
「御数寄屋坊主」が、多く、政治に口を挟んだことから、
権力者におもねる物をののしって言う語、
として、
茶坊主、
という。
権力者の威を借りて威張る者が多かったところからいう、
ともある(デジタル大辞泉)。虎の威を借りる何とか、である。
証言者(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471529860.html)で触れたが、埴谷雄高が、『近代文学』に掲載予定の原民喜『夏の花』のGHQの事前検閲をめぐって、こう証言している。
「GHQといったって内閣も検閲もアメリカ人が読むわけじゃないんだよ。GHQの下には日本人の事実上の検閲係がいて、それで、読んだあと、こんな原子爆弾のことを書いたらとうていだめだって、返されちゃった。日本人が日本の作品を『自己規制』してるんだよ。アメリカの占領方針をすっかり自分が体しているつもりになっているんだが、日本人は茶坊主型が実に多いんだよ。あとで問題が起きたとき責任が自分にかからないように、これはアメリカの占領方針に反するだろうと、できるだけ拡大解釈して、ほんとに小さなことでもチェックして、これはだめだと返してくる。そして、上のアメリカ人に尤もらしく報告するんだな。仮に、日本がアメリカを占領して、アメリカの新聞や雑誌を検閲するためにアメリカ人を使ったとしても、その使われたアメリカ人が、占領軍の方針を勝手に忖度し拡大解釈して『上官の日本人の気にいられる報告』ばかりこれほど出そうとはおそらくしないと思うな。おれは、権力者に対する茶坊主ぶりでは、日本人は世界のベストテンのなかにはいると思っているよ」
ここで言う茶坊主とは、権力者におもねることを指す。茶坊主は、
「職務上、城中のあらゆる場所に出入りし、主君のほか重要人物らと接触する機会が多く、情報に通じて言動一つで側近の栄達や失脚などの人事はもとより政治体制すらも左右することもあったことから、出自や格を超えて重要視、時には畏怖される存在となることもあった」。
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E5%9D%8A%E4%B8%BB)、転じて現代は、
権力者に取り入り出世や保身を図る者の例え、
として、侮蔑的に扱われることが多い(仝上)、とある。
「茶坊主」というのは、江戸幕府の役職であり、
「将軍や大名の周囲で、茶の湯の手配や給仕、来訪者の案内接待をはじめ、城中のあらゆる雑用に従事した。刀を帯びず、また剃髪していたため『坊主』と呼ばれているが、僧ではなく武士階級に属する」
のであり、御数寄屋坊主のトップは、若年寄配下の、
御数寄屋坊主頭、
であり、御目見得(将軍に目通りできる)である。百五十俵高に御四季施代が支給されるが、諸侯からの付届けがあり、内証は豊かである、といわれる(江戸幕府役職集成)。定員は三名、とされる。その下に、
御数寄屋坊主与頭、
が六、七人おり、その下に、
御数寄屋坊主、
が四十人ほどいる。御数寄屋坊主は、御譜代准席で、持高勤めであるが、二、三十俵である、とされる(仝上)。
「初期には同朋衆などから取り立てられていたが、後には武家の子弟で、年少より厳格な礼儀作法や必要な教養を仕込まれた者を登用するようになった」
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E5%9D%8A%E4%B8%BB)、
「禅僧が茶の湯の作法や茶道具の目ききをしたのが初め」(ブリタニカ国際大百科事典)
「栄西の《喫茶養生記》にみられるように、茶は僧院でねむけさましに用いられたので、武家が茶をたしなみ、茶道として成り立つようになってから後でも、茶儀は遁世(とんせい)者の役とみなされ、その世話をする事も人も〈お茶道〉といった」(世界大百科事典)
といった由来からのようである。
因みに、同朋衆(どうぼうしゅう)は、
室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと、
であるが、江戸幕府の役職では、若年寄配下の役職で、御同朋頭(四名)の下に、百俵十人扶持の、
御同朋、
が十人くらいおり、その下に、
奥坊主、
表坊主、
御用部屋坊主、
御土圭役坊主、
等々が属する。同朋頭は、二百石で、名はすべて、何姓何阿弥、と付くことになっていて、
「老中の執務室である御用部屋に入るときは、若年寄・奥右筆組頭以外は、同朋頭を通す決まりであった。同朋頭は征夷大将軍、老中、若年寄の用事を担当し、それ以外の坊主衆は大名の世話をする。同朋頭は若年寄の配下にあった。同朋頭は老中、若年寄、勘定奉行など、要職給仕につくところから、機密文書を目にする機会も多く、情報通になった。将軍の外出時は先駆けすることもあり、身分は低くとも権威を持っていた」
とある(https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E5%9D%8A%E4%B8%BB%E8%A1%86)。その要員は、
「本丸の奥坊主が100人、表坊主が200人ともされ、諸大名家でも江戸城ほどではないが、おいていた」
とされる(百科事典マイペディア)。どちらかというと、茶坊主より、同朋衆の方が、権力の機微に近いように思われるが、
「たとえば《信長公記》に〈茶道は宗易也〉とあるのは、その日の接待役が千宗易(利休)であったことを示す。茶坊主というのも茶の湯坊主の意味である」
と(世界大百科事典)。あるように、近侍するのは茶坊主である。御同朋頭に属するので、指揮系統は異なるが、奥坊主、表坊主も、
「剃髪(ていはつ)、僧衣で、茶室、茶席を管理し、登城した大名などを案内し、弁当、茶などをすすめ、その衣服、刀剣の世話をさせた」
とある(仝上)。200人いたという表坊主は、
「江戸城中に登城した大名や諸役人の接待や給仕の役割がある。剃髪、僧衣で茶室・茶席を管理する。登城した大名を案内し、弁当・茶などを世話し大名の衣服や刀剣の世話をさせる。諸役人から報酬を得ており、収入は多かった。20俵2人扶持、御役金23両。御譜代准席。現代でいうお茶汲みに近い」
とあり(https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E5%9D%8A%E4%B8%BB%E8%A1%86)、
「付届けが悪いと、大名は難渋する事があるので、付届けをして表坊主の気受けをよくする」
という(江戸幕府役職集成)。
約100人いたという奥坊主は、二十俵二人扶持で、
「将軍の御座所の中奥にいて茶室を管理し、奥の雑役をする役割。要人の秘書役を務め、権勢があったという」
とある(仝上)。御用部屋坊主は、
「老中、若年寄の給仕をするから、政治の機密を仄聞するので、闇番、御留守居は、この係と親密にしていないと御役が務まらないので、諸方からの付届けで生活は大変楽であった」
とある(仝上)。御土圭(とけい)役坊主は、御土圭間坊主ともいい、
御土圭(とけい)の間に詰めて、殿中の時間を正確にする掛かり、
である(仝上)。
こうみると、同朋衆、御数寄屋坊主、いずれも、
僧体の者、
であり、将軍をはじめ大名や諸役人に殿中において茶を勧めたところをみると、
茶坊主、
という言い方では、厳密な意味の、
御数寄屋坊主、
のみを指すのではなく、
法体姿・剃髪で世話役などの雑事に従事した人、
つまり、
坊主衆、
をひっくるめて言っていた可能性はあるように思われる。
参考文献;
笠間良彦『江戸幕府役職集成』(雄山閣)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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