2020年03月15日
「仁政」期待
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』を読む。
本書は、著者の、
百姓一揆関係の論稿を加筆・訂正してまとめたもの、
であるため、全体が一貫したものとして展開されているわけではないが、
問題の立て方、問題への接近の仕方の共通性というものがある、
とし、著者自身が「序章」で、
それを一言でいうと、百姓一揆史の研究は幕藩制史研究に緊密に結びつけられていなくてはならないといつも思い、また心がけてきた、ということである。……その統一の意味は、(中略)百姓一揆史における、一揆そのものの特徴を掘りさげていくことをつうじて幕藩制国家史や幕藩制社会史へ可能なかぎり架橋していく、あるいは一揆史から百姓論・小農論の見なおしにまで至り、また農民の個人史にまで分けいっていく、ないしはそれらの考察が同時的であるような一揆史のとらえ方をしていく、というような意味である。
と述べている。そのことは、たとえば、
百姓一揆の「中心原理」は直訴(越訴)と制裁、あるいは直訴の原理と制裁の原理の二つである……。つまり、強訴は直訴の原理に支えられ、打ちこわしは制裁の原理にささえられるのである。そして、直訴の原理は国家の支配の方式と深く関連しあい、制裁の原理は共同体の維持の方式と深く関連しあっている。直訴と制裁の意味は、その対極的な解決方法としての内済(示談・和解)とつきあわせてみるとより鮮明になる。幕藩制下では、内済は国家と共同体を持続させる重要な方式―強制をともなう―だったが、この内済原則と直訴の原理、制裁の原理は対抗の関係にあって、内済原則の破れ目から百姓一揆の直訴と制裁が噴きでてくるとも言えるのである。
したがって、百姓一揆の「中心原理」を深く解明していこうとすれば、どうしても国家の歴史と共同体の歴史へ拘らざるをえなくなる。国家論・共同体論と交接しない百姓一揆論はなりたたないのである。
という説明からも明白である。
本書は、
第一部 百姓一揆の運動と意識
第二部 島原・天草一揆の位置
第三部 百姓一揆の成立と展開
第四部 世直しへの展望
第五部 百姓一揆の研究視角
の五部に編成されているが、
論稿の寄せ集めなので、多少の重複はやむを得ないとしても、
第一部 百姓一揆の運動と意識
第二部 島原・天草一揆の位置
第三部 百姓一揆の成立と展開
を整理して、一貫性を持った一揆論にまとめなおすることはできなかったのか、と疑問に思う。多くの研究書が、論稿を寄せ集めてお茶を濁すという感じなのは、どういうことなのだろう。
僕個人の関心は、かつては、
「自力救済」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/467902604.html)、
で触れたように、大山崎の油商人、米商人、土倉・酒屋等々は、
惣中、
という自律的組織(「所」と呼ぶ)をつくり、みずからの領域内の諸問題を自律的に解決する能力を獲得し、構成員からも、外部勢力からも「公」的な存在と認められるようになったし、また、
「小さな共和国」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/468838227.html)、
で触れたように、小さな村ながら、乙名を指導者とする行政組織を持ち、在家を単位とする村の税を徴収し、若衆という軍事・警察組織を持ち、裁判も行い、村の運営を寄合という話し合いで進め、そのため構成員は平等な議決権を持つ、自治の村落、
惣村、
をつくり、住民の家を保護することを目的に、中世の村の、
自力救済、
を原理として、
領主-村関係、
自体が、支配関係ではなく、
契約関係、
としようとしてきた。だから、
「領主が地下のために“奉公”した時は地下は年貢を納めるべきである」
という年貢の概念をもち、
「自力救済…の道はリスクが大きいことも認識しているのである。平和確保の“しんどさ”、それが有償でも武士を雇う関係を時に生み出すのである。在地の人々にしてみればそうした保護機能こそ領主に期待した。領主がそれに応えてくれるからこそ年貢も出すのである」
というものであった。場合によっては、
「サバイバル」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463189273.html)、
で触れたように、
「敵軍におおくの米や錢を支払って『濫妨狼藉停止(ちょうじ)』の禁制や制札」
を買い取り、さらに、敵味方の境目の村々は、
「敵対する双方の軍に、年貢を半分ずつ払って両属(半手・半納)の関係」
を結ぶことで、
「村の平和」
を買い取っていた。さらに、
「隠物・預物」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464048075.html)、
で触れたように、領主の城は、村人の避難所として、
地域の危機管理センター、
としての役割を託してきた。だからこそ、年貢を払ったのである。しかし、豊臣政権の太閤検地、兵農分離、それを受け継いだ徳川政権の幕藩体制下で、かつてのそうした領主は、
鉢植化、
し、全国へ移封、転封され、縁もゆかりもない領主が、自分たちの上に落下傘のように降りてきた。それでもなお、かつてと同様に年貢を納めた原理は何なのか、が僕には興味があった。
幕藩体制下の一揆では、自力救済は消え、
百姓共永々相続、御百姓相勤、
と自己認識し、
以御愛隣御救ひ被下置候、
と懇願に転換する意識の転換は何によってもたらされたのか。
その転換期にあるのが、島原一揆のようである。太閤検地、兵農分離に際して、国人、土豪層の一揆が、
天草国人一揆、
等々の一揆とは異なるが、有馬旧臣、小西旧臣が在地化し、まだかつての在地領主としての力を集落に温存していた、ということが背景にある、と僕は見るが、著者は、新たな領主として移封してきた松倉・寺沢は、
大名一円支配、
を目指し、
旧土豪層の在地先制支配力の政治的解体を意味し、……本来的な国人・土豪一揆の成立は不可能な段階に立ち至った……。(中略)生産農民の側からいえば、なによりも村落から領主的核が失われてしまい、そのかぎりで領主権力に対して相対的に自立性をもつ生産共同体が獲得され、新しい村落秩序が生みだされる出発点にたちえた…。(しかし)余りも早く(藩権力が)集権化されて、かえって深く在地性を喪失した藩権力の脆弱性からくる焦燥の暴力的収奪の結果が、農民の必要労働部分にまでくいこみ(囲炉裏銭、窓銭、棚銭、戸口銭、死人に穴銭、生子の頭銭等々)、……農民の窮乏がしいられた
結果が招いたという、幕藩体制確立期の矛盾が生み出したもの、と見る。しかしその説明では、一揆参加の村々の多く(有馬領南目の村々)が一村挙げて、女も子供まで参加し、この一揆だけが、江戸時代の一揆の中で、
「宗教王国」実現を願望、
し、
百姓の国、
を目指すという、目的意識を持ったものだったことの背景には、十分迫り得てはいない気がする。
しかし、この一揆を転機に、
幕藩体制的な「御百姓」意識が社会化、
されていくことになる。この時期、年貢の村請制を契機に、年貢負担者を増やすという方向で、
隷属身分農民層、
小百姓層、
の、小農経営が前進していく。それには、
年貢・諸役皆済(「取立(とりたて)」)……のためには、農民を土地に緊縛し(「有付(ありつけ)」)、その経営を維持させる(「成立(なりたち)」)ことが不可欠、
となる。こうして、
小農経営の、領主による強度の収奪ゆえの不安定さを基本的な根拠として、経営維持のための領主による直接の助成米金、さらに年貢未納用捨分、引免分、さらには土地丈量の縄延分、川除工事等々が、領主の「御仁恵」(「御愛隣」「御憐愍」「御慈悲」等々)という人格的な倫理的基礎に由来する「御救」として、社会化されていったのである。幕藩領主の全剰余労働収奪は、一方での「収斂」と、他方での「御救」の矛盾的統一によって農民から最大限収奪を実現するということにほかならなかったが、幕藩イデオロギーは、そのような現実的関係をとり結ぶ領主と農民を、「お救」を基軸的媒介とする「仁君」と「御百姓」の「仁政」論的意識関係として思想化していくことで形成された。このような治国・養民を使命とする「仁君」と上納・養命を使命とする「御百姓」を両極とし、それを身分関係として結合させる領主および農民の規範的な身分的階級的自己認識および関係意識の理念化された総体は、幕藩制国家の支配思想としての幕藩的「仁政」イデオロギーと呼ばれるべきであるが、それは、(中略)村請制村落の成立を基盤とする、いわゆる村請教化制の実現ともいうべき、この時期の系統的な触書・法度の読聞せ、その請書への連印等の具体的なイデオロギー編制過程において社会化されたのである。
だとして、とっかえひっかえ、かつての領主とは違い、ただ鉢植え化した縁もゆかりもない領主にまで、「仁政」を期待して、年貢を納め続ける、というのは、かつて安全の担保に領主に納税していた意識と、確かにどこか通底するといえなくもない。期待は空手形になっても、直訴、強訴しかとりえないというのは、自力救済とは格段に違うように見えるが、心性としては、他人頼みという意味で似ている。それを奴隷根性というのはいいすぎだろうか。
この「仁政イデオロギー」「仁君」への期待は、水戸黄門を見るまでもなく、大衆化され、いまだ隅々にまで我々の心の奥底にまで浸透している気がする。
この「仁政」期待の心性は、そのまま、維新後、
日本国家の支配イデオロギーとして近代天皇制イデオロギー、
へと接続し、やはり「仁政」「仁君」を期待し、いまだに、日本人を縛り付けている気がする。お上意識、あるいは、お上に逆らうことへの心理的抵抗は、他方で、
仁政、
を期待する他力頼み、御上頼みの奴隷根性につながっている気がしてならない。
ただ、本書では、その機微を深奥まで突き止めるのは任でないとはいえるが、いささか説明のみで終わって、まさにその核心である、
系統的な触書・法度の読聞せ、その請書への連印等の具体的なイデオロギー編制過程、
そのものを、具体的、かつ綿密に掘り下げていないのは、
百姓一揆史の研究は幕藩制史研究に緊密に結びつけられていなくてはならない、
という問題意識のわりには、具体的な追求不足は否めない。
参考文献;
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』(校倉書房)
仁木宏『戦国時代、村と町のかたち』(山川出版社)
蔵持重裕『中世村の歴史語り―湖国「共和国」の形成史』(吉川弘文館)
藤木久志『城と隠物の戦国誌』(朝日選書)
藤木久志『戦国の村を行く』(朝日選書)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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