「不惜身命」は、
ふしゃくしんみょう、
と訓む。法華経・譬喩品にある語で、
仏道を修めるためには、あえてみずからの身命をもかえりみないこと、
また、
その心構えや態度のこと、
である(故事ことわざの辞典)。現在では、広く、
自身の立てた目標や目的を達成するため、命や体を惜しまず全力で事に当たる、
という意味に変化しており、確か貴乃花が大関昇進に当たって、この言葉をそんな意味で使った。
法華経・譬喩品には、
若人精進、常修慈心、不惜身命、乃可為説(若し人精進し、常に慈心を修め、身命を惜しまざれば、乃ち為に説くべし)、
とあり、法華経・勧持品には、
読誦此経 持説書写 種種供養 不惜身命 爾時衆中 五百阿羅漢(この経を読誦し、持ち、説き、書写して、種種に供養し、身命をも惜しまざるべし)、
とあり(http://www.shiga-miidera.or.jp/doctrine/be/122.htm)、また、法華経・如来寿量品にも、
一心欲見佛 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山(一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまざれば、時にわれ及び衆僧は、倶に霊鷲山に出ずるなり)、
とある(仝上)。さらに、日蓮遺文・御義口伝にも、
第二不惜身命の事、御義口伝に云く、身とは色法、命とは心法也。事理の不惜身命之有り、法華の行者田畠等を奪るるは理の不惜身命也。命根を断たるるを事の不惜身命と云ふ也、
とある(故事ことわざの辞典)。また、浄土宗の観経疏・散善義にある、善導が深心釈に、
一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行せよ、
とあり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%8D%E6%83%9C%E8%BA%AB%E5%91%BD)、となると、
不顧身命、
も同義と理解されている(仝上)。
ところで、道元の正法眼蔵には、
ここに為法捨身あり、為身捨法あり。不惜身命なり、但惜身命なり。法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり。捨は無量なること、わするべからず、
とある(https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%C9%D4%C0%CB%BF%C8%CC%BF)、とか。この、
但惜身命(たんじゃくしんみょう)、
は、ある意味、「あたら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474080990.html?1584387485)で触れた、
可惜身命、
と似た意味で、
身命を惜しむ、
意である。しかし、
不惜身命なり、但惜身命なり、
とあるのは、
漢字の意味をそのまま解釈すれば「ただ、身体や命は惜しいものだ」となります。つまり、「不惜身命なり、但惜身命なり」とは、身体や命は大切なもので、無駄にすべきものではない、ということを理解しているからこそ、仏のために身体や命も惜しまないことが大切だと考えられる、と解釈できます、
とある(http://stevengerrard.hatenablog.com/entry/20110416/1334442460)が、この、
但惜身命、
を、
「但」は「但し」、
ではない(http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/husyaku.htm)、
「不惜身命なり」と、ここでいったん打ち切る。但しという具合につながないで、全く新たに、「但惜身命なり」と受けるのです。そうでないと、この一句の真の意味はまったくわからなくなります。不惜の道と、但惜の道とが互いに、人生最高のあり方として、しっかりと同時現成している、
と解している(仝上)。とすると、たぶん、
不惜身命、
と対に考え出された、
可惜身命、
もまた、ただ、
身命を惜しむ、
意ではないはずである。
可惜(あたら)、
が、
今のままでは惜しい、または大切なものや良いものが相応しい扱いをされていないことを惜しむ、
意とするなら、そういう大事な身命を惜しむことが片方にあり、にもかかわらず、その大事なかけがえのないものを、仏法修行に賭する、というのに、意味があるのだろう。道元の、
ここに為法捨身あり、為身捨法あり。不惜身命なり、但惜身命なり。法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり。捨は無量なること、わするべからず、
を見る限り、
法のために身命を惜しまない面、
と、
ただ身命を惜しんで修行する面、
という二義性(https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%C9%D4%C0%CB%BF%C8%CC%BF)を示しており、一般論化して解釈するのではなく、あくまで仏法修行を言っているだけで、
法のために命を惜しまず、
しかし、
命を惜しんで修行する、
という解釈になるのだろう(仝上)。ただ、別の解釈もあるらしく、
仏法を体得して、むしろ身命を大切にして、ながく人々のために法を説き広めることを、
但惜身命、
ともいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%8D%E6%83%9C%E8%BA%AB%E5%91%BD)、とある。となると、道元の、
不惜身命なり、但惜身命なり、
とは、対ではなく、因果であり、
不惜身命なり→但惜身命なり、
の境地に達することになる。この解釈の方が個人的には納得いくが、道元の趣旨からは離れていく。
参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:不惜身命