「菓子」は、
木の実・果物の意、
であり(岩波古語辞典)、「菓」(カ)は、
会意兼形声。「艸+音符果(丸い木の実)」
で、「果」と同義。食料とされる果物、木の実の意である。「おかし」の意味で使うのは、わが国だけである。
「菓子」は、
木菓子、
ともいった(日本食生活史)。
古代の日本人は稲、粟、稗などを主食とし、狩猟や漁撈などによってタンパク質を得ていたが、そのほかにも空腹を感じると野生の木の実や果物をとって食していたと考えられ、これが間食としての菓子のはじまりであろうと考えられている、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90#%E6%AD%B4%E5%8F%B2)。
平安期になると、広く、
間食の品、
を、
くだもの、
とよんだ(仝上)。今日の意味の菓子は、
唐菓子(からかし)、
唐菓(果)子(からくだもの)
とよんだ(仝上)、とある。
奈良時代から平安時代にかけて中国から穀類を粉にして加工する製法の食品が伝わり、これが唐菓子と呼ばれるようになる。果実とは全く異なる加工された食品ではあるが、嗜好品としては果実同様であるとして「くだもの」と分類されたのではないかとも考えられている。なお、加工食品としての菓子が伝来して以降、果物については「水菓子」と呼んで区別するようになった、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90)。
「木菓子」と呼ばれたものは、
橘・柚子・搗(カチ)栗・扁栗・焼栗・削栗・干柿・熟柿・梨・梅・李・石榴・枇杷・唐桃・蜜瓜(アマウリ すいす・まくわうり)・覆盆子(イチゴ)・棗・椎・杼(トチ)・柏の実・松の実・枝豆・芋・蓮・蒟蒻、
等々があり(仝上)、平安期、木菓子は、
「病人が食欲がなくなったときには、蜜柑の一種である柑子(こうじ)さえもたべられなくなったとたとえられるほど好まれた」
と、源氏物語にも、
「月ごろ悩ませたまへる御心地に、御行なひを時の間もたゆませたまはずせさせたまふ積もりの、いとどいたう くづほれさせたまふに、このころとなりては、柑子などをだに、触れさせたまはずなりにたれば、頼みどころなくならせたまひにたることと、泣き嘆く人びと多かり。
とある(薄雲)。
初めは生のまま食べていたが、次第に保存のため乾燥させたり、灰汁を抜いた木の実の粉で粥状のものを作ったり、あるいは丸めて団子状したりするようになり、現代の団子や餅の原型となるものが作られるようになっていった、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90#%E6%AD%B4%E5%8F%B2)。
記紀には、
垂仁天皇の命で田道間守が不老不死の理想郷に赴き、10年の探索の末に非時具香菓(ときじくのかくのみ、橘の実とされる)を持ち帰ったと記されており、これによって果子(果物)は菓子の最初とされ、田道間守は菓祖神とされている、
とある(仝上)。「唐菓子」は、古く、
文武天皇の治世の704年には、遣唐使の粟田真人によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされた。この中には油で揚げて作るものもあり、これはそれまでの日本にはなかった菓子の製法であった。これらの菓子は祭神用として尊ばれ、現在でも熱田神宮や春日大社、八坂神社などの神餞としてその形を残している、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90#%E6%AD%B4%E5%8F%B2)が、それより古く、
古墳時代末期の古墳から高坏(たかつき)に盛られた唐菓子を模った(かたどった)土製品が出土している、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90)。この果実・木の実とその加工品を、
くだもの(果子・菓子)
と記述していたことが、嗜好品を菓子と記述する由来になった、と思われる(仝上)。
「唐菓子」は、はじめは、植物の菓子に似せて、
糯米(もちまい)の粉・小麦粉・大豆・小豆などでつくり、酢・塩・胡麻または甘葛汁(あまづら)を加えて唐の粉製の品に倣って作り、油で揚げたもの、
らしく(日本食生活史)、名前も、異国風に、
梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、
桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、
餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、
桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、
黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、
饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、
鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、
団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、
等々があり(倭名類聚抄、日本食生活史)、以上の八種は、
八種唐菓子(やくさからがし)、
と呼ばれ、
これは特別の行事・神仏事用の加工食品と言える。これらは日常的に作られていなかったようで、製法が詳細に記述された文献がある、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90)。なお、団喜は、
歓喜団(かんぎだん・かんきだん)、
ともいい、
現存する清浄歓喜団は、小麦粉の生地で小豆餡を茶巾状に包み胡麻油で揚げたものとなっている、
とある(仝上)。
ちなみに、アマヅラ(甘葛)は、甘味料のひとつである。
一般的にはブドウ科のツル性植物(ツタ(蔦)など)のことを指しているといわれる。一方で、アマチャヅルのことを指すという説もあり、どの植物かは明かではない、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%85%E3%83%A9)。このことは、
「甘茶」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473914947.html)、
で触れた。この他に、
餛飩(麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの)、
餅餤(ヘイタン 餅の中に鳥の卵や野菜を入れて四角に切ったもの)、
餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、
環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、
結果(カクナワ 緒を結んだ形にしたもので、油で揚げる)、
捻頭(ムギカタ 小麦粉で作り油で揚げたもの、頭の部分がひねってある)、
索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、
粉熟(フンズク ふずくともいう、米・麦・大豆・胡麻の五穀を粉にして餅をつくり、ゆであまずらをかけて竹の筒に詰め、押し出して切ったもの、小豆の摺り汁を用いた)、
餺飥(ホウトウ やまいもをすりおろし、米の粉を混ぜてよく練って、めん棒で平たくし、幅を細く切って、豆の汁にひたして食べた。ほうとうは、今日も残っている)、
煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、
粔籹(アシゴメ 糯米を火で煎って密で固め、竹の筒などにつき込んで押し出す、今日のオコシと似ている)、
等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、日本食生活史)。
室町時代になると、公家や僧侶が今日の昼食に当たる中間食を取るようになる。かれらは、この間食品を、
点心、
茶子(ちゃのこ)、
菓子、
にわけた(日本食生活史)、という。
「点心」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90)についてはすでに触れたが、輕空腹をみたすためのもので、食べる方に重点が置かれ、「尺素往来(せきそおうらい)」には、
点心の菜を数多くすることを元弘様と称して、当世では物笑いである、
と指摘しているとかで(仝上)、元弘(1331~33)年間から、点心が流行していたらしい。点心として好まれたのは、
羊羹、
饅頭、
麺類、
豆腐、
等々であるが、いずれも精進物である。饅頭の食べ方について、
饅頭の食やう。一つ取て押しわりて、なから(中央)をば、残たる饅頭の上に置き、なからを食ふべし。さて残たるを食いたくば食ふべし。苦しからず候。年寄たる人は、丸ながらも食ふべし、
とある(宗五大草紙)とか(仝上)。
「茶子」は、
茶請、
で、唐菓子ではなく、点心の後に食べる淡白な量の少ないものを指し、喫茶に重きを置いた。前述の「尺素往来」は、「茶子」として、
麩指物、
零余子指(のかこざし)、
炙麩、
豆腐上物(あげもの)、
油炙(いり)、
唐納豆、
挫栗(かちぐり)、
干松茸、
結昆布、
泥和布(ぬため)、
出雲苔(のり)、
胡桃、
串柿、
干棗、
鳥芋(くわい)、
興米(おこしごめ)、
等々を挙げている。
「菓子」は、くだものの意で、今日の、
水菓子、
で、食後に出された。
蜜柑、
林檎、
枇杷、
石榴、
桃、
杏子(あんず)、
柿、
桃、
等々。
(現代においても会席料理などでは、このようなフルーツのことを「水菓子」と呼ぶ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90より)
やがて、
茶道とともに発達した点心は京都でさらに発展し、練り羊羹や餅菓子、半生菓子から打物の干菓子まで、工芸的趣向をこらしたものになり京菓子として隆盛を極めた、
が、
江戸時代も後期になると、京菓子に対抗して江戸文化により育まれた上菓子が隆盛を見せる。また、白砂糖は上菓子のみに用いるといった制限を逆手にとり、駄菓子と言われる黒砂糖を用いた雑菓子類も大きく発展した、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90)。
文化・文政期(1804~30年)になると、……和声の黒砂糖が作られ、これが菓子に使用されるようになる。(中略)江戸時代の菓子は従来の自然菓子などではなく、すべて加工菓子を指して呼び、代用食であった。お茶の子といって江戸では毎朝売りに来るものがあり、それを買って朝飯の代用にする者も多かった、
とある(日本食生活史)。ここで「茶の子」とは「茶請け」、つまり、
茶を飲むときに食べる菓子又はその代用品、
の意である(江戸語大辞典)。菓子の種類は、
蒸菓子。
練菓子、
干菓子、
等々であるが、砂糖が普及したため、
饅頭、
団子、
煎餅、
餅類、
等々に、特殊なものが作られるようになる(日本食生活史)。この時期の、
羊羹(http://ppnetwork.seesaa.net/article/472187601.html)、
饅頭(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473566185.html)、
きんつば(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473803819.html)、
どらやき(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473787627.html)、
落雁(http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.html)、
おこし(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473245948.html)、
等々についてはそれぞれ触れたし、
和三盆(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474134165.html)、
砂糖(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474151591.html)、
についても触れたし、「餡」については、
小倉(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473261871.html)、
汁粉(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473399881.html)、
でそれぞれ触れた。
参考文献
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95