「辟易」(へきえき)は、今日、
うんざりすること、
閉口すること、
という意味で使うが、本来は、
「辟」は避ける、「易」は変える。避けて路を変える、
意で、
驚き恐れて立ち退くこと、
で、ある意味慌てて立ち退くという状態表現であったものが、そこから、
勢いに押されて尻込みすること、
たじろぐこと、
の意と、価値表現に転じ、それが、
閉口すること、
という心理表現に変わった、というように見て取れる。
「辟」(漢音ヘク、呉音ヒャク)は、
会意文字。「人+辛(体罰を加える刃物)+口」で、人の処刑を命じ、平伏させる君主をあらわす。また、人体を刃物で引き裂く刑罰を表すとも解される。ヘキの音は、平らに横に開く意を含む、
とあり(漢字源)、「人を平伏させて治めるひと・君主」(辟公)、「罪・体を横裂きにする刑罰」、「さける、よける」「よこしま」といった意味がある。
「易」(漢音エキ、呉音ヤク)は、
会意文字。「やもり+彡印(もよう)」で、蜥蜴(セキエキ)の蜴の原字。もと、たいらにへばりつくやもりの特色に名づけたことば。また伝逓の逓(次々に横に伝わる)にあて、AからBにと、横に次々と変わっていくのを易という、
とあり(仝上)、「次々と入れ替わる、かわる」「やすい(難の反)」いった意味がある。論語の、
少年易老学難成、
である。
「辟易」は、史記の、
人馬倶驚 辟易数里、
からきている。文字通りに解釈すれば、
横に避け身体を低めて退避すること、数里、
ということになる(仝上)。垓下(がいか)の戦いで形勢不利となった項羽軍は、漢軍の包囲を突破して東城に至った。そのとき、従う者はわずか28騎となっていた。追ってきた漢軍は数千人で、軍を4つに分け、四面を幾重にも囲む漢軍に向かわせた。項羽自らが大呼して敵陣に馳せ下ると、漢軍はみな風になびく草のようにひれ伏し、ついに敵の一将を斬った。このとき赤泉侯が漢軍の騎将として項羽を追ってきたが、項羽が目を怒らせて怒鳴りつけると、赤泉侯は人馬もろとも驚き、数里も後ずさりしてしまった、
という史記・項羽本紀の垓下(がいか)の戦いの故事による。「辟易」は、
(項羽に)恐れをなして後ずさった、
ということだろう。漢書・項籍伝の注に、
辟易、謂開張而、易其本處、
にあるとかで(大言海)、ただ後ずさるだけではなく、左右にも逃げ広がって、道を開けた、という意味のようである。
項羽は、
姓は項、名は籍、字が羽、
一般には項羽で知られる。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王”(在位紀元前206年~紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、次第に劣勢となって敗死した。
垓下の戦い、
では、有名な、
四面楚歌、
の故事もあり、虞美人に送った、
力は山を抜き気は世を蓋う、
時利あらず、騅逝かず、
騅の逝かざるを奈何にす可き、
虞や、虞や、若を奈何んせん、
が垓下の歌と史記にある。ここでの、
抜山蓋世、
も故事として残る。
参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%93%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%AD%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%B1%8D
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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