2020年05月06日
ほしい
「ほしい(ひ)」は、
糒、
と当てるが、
糇、
とも当て、字鏡(鎌倉時代の字書)に、
糇、乾飯也、加禮伊比、又、保志比、
とある。また、
糗、
とも当てる(岩波古語辞典)。下学集(室町時代の国語辞典)には、
糒、糗、ホシヒ、
とある(仝上)。
「糒」(漢音ヒ、呉音ビ)は、
会意兼形声。「米+音符備(ヒ そなえとしてとっておく)の略体」
とある(漢字源)。
米を干して保存できるようにしたもの、旅行の携行食、や軍隊の糧食とした、
のである(仝上)。
乾飯、
乾糧、
とも言う。
「糗」は、
ハッタイ、
とも訓ます。「はったい」は、
麨、
とも当て、
麦・米、特に大麦の新穀を煎(い)って焦がし、碾(ひ)いて粉にしたもの、
はったい粉、
麦こがし、
香煎(こうせん)、
の意である(広辞苑)。
「ほいい」は、
ホシイヒ、
の略である。「日本書紀」允恭紀7年12月壬戌(みずのえいぬ)に、
乃経七日伏於庭中、與飲食而不飡、密(しのび)に懐中(ふつころ)の糒を食(くら)ふ、
とある(大言海)。天皇の命令で派遣された中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)が、拒み続ける衣通郎姫(そとおしのいらつめ)を召すため、庭先に伏して懐中の糒を食べながら衣通郎姫の受諾をじっと待ったというくだりである。
「糒」は、
炊いた飯を水で軽くさらし天日で乾燥させた食品で、古くは炊き過ぎた米を保存するためにも利用された。また、米以外にも粟や黍の糒も存在していた、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%8C%96%E7%B1%B3)、伊勢物語の「東下り」の段で、
三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の陰に下り居て、餉(かれいひ)食ひけり。その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、
かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心を詠め
といひければよめる。
から衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
と詠めりければ、みな人、餉(かれい)の上に涙落として、ほとびにけり。
と、涙をこぼしてふやけてしまった旨が書かれているが、米を煎ったものには、
煸米(やきごめ)
と
糒、
がある(日本食生活史)、とある。煸米は、
モミのまま煎って殻をとったもの、
糒は、
糯米・粟・黍などを蒸して陽に干したもの、
とある(仝上)。これが本来の「糒」に思われる。「粥」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474375881.html)で触れたように、当時、米は甑で蒸して食べていたためである、と思われる。「糒」は、
餌袋(エブクロ)に入れて塩・若布をそえ、携行し、旅先でこれに湯水をいれてふやかしやわらかくして食べた、
のである(仝上)。
なお「餉」(カレイ)は、
乾飯、
とも当て、
カレイヒ、
の約である。古くから、携行食糧として使ってきたので、「餉(カレイ)」は、
広く携行食糧、
をも意味する。
「ほしい」に、「糒」の漢字が使われるようになったのは鎌倉時代からで、それ以前は、
干し飯(ほしめし・ほしいい)、
とも呼ばれていた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%8C%96%E7%B1%B3)、とある。
そのまま水といっしょに食べたり、あるいは水を加えて炒めたり、茹でて戻したり、粉末にしてあられや落雁などの菓子の材料にも用いられた。和菓子材料の道明寺粉も餅米の糒である。また仙台糒のように地域の特産品として作られたりもしていた、
とある(仝上)。「弁当」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471815294.html)でも、このことは触れた。なお、
「落雁」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.html)、
「あられ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/468559673.html)、
「おこし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473245948.html)、
についてはそれぞれ触れた。この古く、
糒(ほしい・ほしいい)、
乾飯(ほしい・ほしいい)、
餉(かれい・かれいい)、
と呼ばれる保存食・非常食は、現代のアルファ化米と似ている。
天日干しなどの方法により緩やかに乾燥されているので、乾燥後の糊化度については現代のそれとの差がある可能性はある、
が、似た効能が考えられる。アルファ化米とは、
炊飯または蒸煮(じょうしゃ)などの加水加熱によって米の澱粉をアルファ化(糊化)させたのち、乾燥処理によってその糊化の状態を固定させた乾燥米飯のことである。加水加熱により糊化した米澱粉は、放熱とともに徐々に再ベータ化(老化)し食味が劣化するが、アルファ化米はこの老化が起こる前に何らかの方法で乾燥処理を施した米飯である。アルファ化米は熱湯や冷水を注入することで飯へ復元し可食の状態、となり、アルファ米とも呼ばれる、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%8C%96%E7%B1%B3)。いにしへの人の知恵である。
古代の兵士食として、「凡(およ)ソ兵士ハ人別ニ糒六斗、塩二升備ヘヨ」(軍防令兵士備糒(びひ)条)とある。六斗は30日分の食料にあたる、
という(日本大百科全書)。保存性においては、倉庫令では稲・穀・粟の保存期間を9年、その他雑穀を2年定めて規定しているのに対して、糒は20年とされている。この20年間という保存期間が伊勢神宮の式年遷宮の根拠になったという説もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%8C%96%E7%B1%B3)。
更に蝦夷征討に関連して780年に坂東諸国と能登・越中・越後の各国に対して糒3万斛の調達を命じている。この他にも『延喜式』には、新嘗祭の供御料や最勝王経斎会の供養料として大膳職で作られた糯糒・粟糒が支出される規定がある(仝上)。
携行食としての「糒」の便利さは江戸時代でも、おむすびと共に利用されている(日本食生活史)。なお「おむすび」にいては「屯食」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474663277.html?1587323047)で触れた。「糒」は、
江戸時代には旅人が持って行き、旅館に泊まればそれを煮て飯にしてもらい、お菜を持参した。したがって薪代だけを払えば飯代はそれですむ、
のである(日本食生活史)。
参考文献;
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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