2020年05月10日

成仁


武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す:秋瑾女士伝』を読む。

秋風秋雨人を愁殺す.jpg


秋瑾(しゅうきん)、字は、璿卿(せんけい)、号は競雄。鑑湖女俠と自称した。浙江(せっこう)省紹興の人。清末の女性革命家である。タイトルの、

秋風秋雨人を愁殺す(秋風秋雨愁殺人)、

は、彼女の絶命詞と伝えられる。しかし、本書によると、「秋瑾集」では、

秋雨秋風、

となっており、当時の新聞紙上でも、みな、

秋雨秋風、

となっているし、西湖畔に建てられている記念碑も、

秋雨秋風、

となっている。彼女の親友呉燦芝のみが、

秋風秋雨、

としている、とか。

日本留学中に光復会に入り、浙江で武装蜂起を計画したが、発覚して捕縛された。

取り調べに際して、

秋風秋雨愁殺人、

とのみ書き記しただけで、何の発言もせず、

秋女士は「革命党人は死なぞおそれやしない。殺したければ殺すがいい」と豪語して、歯をくいしばり目をつぶり、酷刑(ごうもん)にたえているので、革命側の秘密をさぐり出せぬ幕友(書記とか秘書の役で政治家につきそう知識人)は、仕方なくなり、ニセの供述書をこしらえ、それに無理やり指の印をおさせた。

という。翌日六月六日午前四時に、斬首された。

日本留学当時の秋瑾.jpg

(日本留学当時の秋瑾 本書より)

本書には、秋瑾だけではなく、それと連携し、僅か前の五月二十八日蜂起した、徐錫麟についても、詳しく触れている。

徐錫麟、字は伯蓀、号は光漢子。浙江省山陰県出身。彼は、

安慶起義を計画、巡警学堂の卒業式典に際し恩銘を殺害、清軍と4時間にわたる戦闘を展開したが、圧倒的な武力の清軍に破れ捕虜となった。裁判に際しては満族駆逐を志すこと10年にして目的を達したと陳述、翌日生きながらに割腹される酷刑により死刑となった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E9%8C%AB%E9%BA%9Fが、本書には、

たまたま藩、県、道の三長官ならびに幕友が、みな紹興の生まれ、つまり錫麟とは同郷であった。殺すにしてもそれほど長時間の苦痛をあたえたくない。そこで、あらかじめ徐錫麟の陰嚢を打ちやぶってしまったので、割頭剖心(生体解剖をして、胸部を裂き心臓をひきずり出す)のむごたらしい手術(死刑)が行われるときには、すでに犯人は、感覚も失った冷たい物体と化していたのだそうである。

とある。この背景には、

山陰の知県の李宗嶽(おそらく、これは李鐘嶽のことではなかろうか)が、「秋瑾ヲ殺シタルガタメニミズカラ縊レ死ス」という……。

清朝の官吏(漢人)のなかにも、満州族の支配に反感をいだきつつ、しかも漢人革命家をころさねばならぬ立場に立たされ、結局、手を汚してからあと自殺するハメになった男はいたのである。また、そのような、うしろめたい汚れた手をもちつづけるのを拒否して、あらかじめ革命派に加勢していた、コミットしていた官吏諸君も、いるにはいたのである。たとえば、金華の鎮台提督だった蕭という男(名は不明)は、この二大事件(秋と徐の蜂起)のさい龍華会に関係があったため、刀を用いて自殺している。

等々といった漢人の支配層にも複雑な心理状態があった。ちなみに、「龍華会」とは、

別名を龍半山と称し、本部を金華におき、秋瑾が義軍の旗あげを企てるさいに、もっともたよりにし、この会を、大本営とする予定であった。

とある。秘密組織である。

これは、1907年のことである。武昌で武装革命が成功し、孫文が新政府の大総統にえらばれたのは1911年のことになる。いわば革命の魁であった。烈士を形容する言葉に、

成仁(仁を成す)、

がある。身を殺して仁を成す意である。まさに秋瑾は先駆であった。

魯迅は、1925年、「『フェアプレイ』は早すぎる」で、こう書いている。

「秋瑾女子は、密告によって殺されたのだ。革命後しばらくは『女侠』としてたたえられたが、今ではもはやその名を口にする者も少ない。革命が起こったとき、彼女の郷里(紹興)には、一人の都督―すなわちいまの督軍―が乗りこんできた。彼は彼女のかつての同士であった。その名は王金発。彼は、彼女を殺害した首謀者をとらえ、密告事件の証拠書類をあつめ、その仇に報いんとした。だが、結局、その首謀者を釈放してしまった。と申すのは、すでに民国になったからには、おたがい昔のうらみを洗いたてるべきではない、という理由かららしい。しかるに第二革命が失敗するや、この王金発自身が袁世凱の走狗のために銃殺されている。その有力なる関係者の中心には、彼が釈放してやった秋瑾殺害の首謀者があった。この男もいまでは『天寿を全う』した」

と。

秋瑾の蜂起計画は結構杜撰で、チャップリンの、

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ、

の言葉とは逆に、

クローズアップで見れば喜劇だが、ロングショットで見れば悲劇、

の様相である。辛亥革命の先駆として、歴史の中では悲劇なのである。しかし、場違いながら、中島みゆきの、

ファイト、闘う君の唄を、闘わない奴等がわらうだろう、ファイト、冷たい水の中を、ふるえながらのぼってゆけ、

を思い出した。

匹夫も志を奪う可からず(論語)、

あるいは、

匹夫の賤にも与って責め有るのみ(顧炎武)、

なのである。清末の革命派のスローガンは、

国家の興亡は匹夫にも責めあり、

であった、という。

参考文献;
武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す:秋瑾女士伝』(筑摩叢書)
井波律子『論語入門』(岩波新書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:37| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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