2020年05月12日

哲学史


A・シュヴェークラー『西洋哲学史』を読む。

西洋哲学史.jpg


本書は、「アリストテレスがそうしているように」、

哲学史をタレスからはじめる、

とし、

古代哲学(ギリシャ、ローマの哲学)、
(中世の哲学)、
近世哲学、

の区分に従い、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、フィヒテ、ヘーゲルへと至る哲学史である。

特に、第一の古代哲学は、

ソクラテス以前の哲学(タレスからソフィストまでを含む)、
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、
アリストテレス以後の哲学(新プラトン主義までを含む)、

と詳細である。

本書は、まず哲学の定義から始まる。

哲学するとは考えること、事物を思考によって考察することである、

と。では、実際的な活動においての思考、あるいはその他の諸科学の思考と、哲学のそれとはどう違うのか。

哲学を経験的な諸科学から区別するものは哲学の素材ではなくて、その形式、方法、認識の仕方である。個別的な経験科学はその素材を経験から直接にとりあげる。それを眼の前に見出し、見たままにとりあげる。哲学はこれに反して、与えられたものを与えられたままにとりあげるということは決してしない。それは与えられたものをその最後の諸根拠にまで追求し、あらゆる個別的なものを究極原理に関係させ、知識の総体のうちにおける制約された一分肢として考察する。まさにこのようにすることによって哲学は、個別的なもの、経験のうちに与えられたものから。直接性、個別性、および偶然性という性格を除去するのであり、経験的な個別性の大洋から普遍的なものを、無数の秩序のない偶然事から必然的なもの、一般的な法則をとりだすのである。要するに哲学は、経験的なものの総体を思想的に組織された体系という形で考察するのである。

これだとわかりにくいが、これを私的に注釈するなら、

経験や具体的な諸科学のメタ科学、

ということなのではないか。あるいは、

科学のメタ科学、

と言ってもいい。

形而上学(metephysic)、

とは、ギリシャ語で、

Meta+physika(自然学)、

である。ある意味、

思考することを思考する、
思想することを思想する、

つまり、

考えることを考えること、

なのではあるまいか。だから、

経験的諸科学と交互作用をなしていること、

その意味で、

哲学は一方には経験的諸科学を制約するとともに、他方にはまた哲学自身がそれらによって制約されるということである、

のであり、その意味で、

完成された哲学、

はあり得ず、

さまざまに相継いであらわれる時代哲学という形でのみ存在する、

のである。だから、哲学史は、

これらのさまざまの時代哲学の内容、順序、および内的連関、

ということになる。結果、上述の区分で哲学の流れを俯瞰していくのが、本書である。

哲学に無縁なぼんくらな人間には、なかなか前後の道筋をたどりきれないが、その都度の、シュヴェークラーのコメントがなかなかワサビがきいていて楽しめる。たとえば、

ソクラテス以前の哲学に共通な傾向は、自然を説明する原理を見出すことである、

と、その中のエレアのゼノンの逆説(アキレウスと亀、飛ぶ矢は動かず)について、

物質と空間と時間の無限分割性という概念のうちにある困難と二律背反を、はじめて少なくとも部分的には正しく指摘したものであるが、アリストテレスはゼノンをこれらの議論のために弁証法の創始者と呼んでいる。ゼノンはまたプラトンにも根本的な影響を与えた。

プラトンとソクラテス、アリストテレスへの流れについて、

プラトンによってギリシャ哲学は、その発展の頂点に達した。プラトンの体系は、自然的および精神的宇宙の全体を一つの哲学的原理から最初に完全に構成したものである。それはすべての高い思弁の原型であり、形而上学的および倫理的観念論の原型である。ソクラテスによっておかれた単純な土台に立って、哲学の理念は、ここではじめて包括的に実現された。ここで哲学は完全な自己意識に達した……、しかしそれと同時にプラトンは、哲学を与えられた現実に観念的に対立させた。(中略)これはより実在論的な物の見方によって補われなければならなかった。そしてそれはアリストテレスに始まるのである。

結局古代哲学は、

プラトン=アリストテレス的哲学の二元論(中略)を克服しようとして挫折したのである。キリスト教はこの問題を再びとりあげたのである。それは、古代の思考が実現しえなかった理念、神の彼岸性の廃棄、神的なものと人間的なものとの本質的統一を自己の原理とした。神が人となったということ……がキリスト教の思弁上の根本理念であって、(中略)この時からずっと一元論が近世哲学全体の特徴となり根本傾向となっている。

そして近世哲学は、

古代哲学が立ちどまっていたその点から出発したのである。思考、自己意識が自分のうちへしりぞいたのがアリストテレス以後の哲学の立場であったが、これはデカルトにあって近世哲学の出発点をなしており、近世哲学はここから出発して、古代哲学が脱却しえなかったあの対立を思考によって媒介し融和させるにいたったのである。

さて、そのデカルトは、

第一に、まったくの無前提という要求を出したことによって、哲学の新しい時代の創始者である。すなわちデカルトは、思考によって措定されていないすべてのもの、あらゆるあたえられた真理に対して絶対の抗議を要求したのであるが、これはそれ以後ずっと近世の根本原理となっている。第二に、デカルトは、自己意識の原理、純粋に自立的な自我の原理を提示したが(デカルトは、精神すなわち思考する実体を個人的自己、個々の自我と考えた)、これは古代の知らなかった新しい原理である。第三に、デカルトは存在と思考、存在と意識との対立を提示して、この対立の媒介を哲学的課題として宣言したが、これは近世哲学全体の問題となっている。

デカルトの切り離した精神と物体、意識と存在を解決する一つの方法は、

二つの実体と見ないで、一つの実体の現象形態とみること、

である。それを、

神のみが実体で古物はすべて偶有的である、

と、整合的に言い表したのがスピノザである。スピノザの体系が、

デカルトの体系の完成であり真理である、

とされる所以である。

スピノザの体系は、考えうるかぎりもっとも抽象的な一神論(むしろ一元論)である。

しかしそれは、

人々の普通の観念には実在と見えるすべてのものをその視野からしりぞけ……、その欠陥は実体のこの否定的な深淵を存在と生成の肯定的な根拠に変えることを知らない点にある。

デカルトの二元論を克服する道には、

物質の側に立つか、
観念の側に立つか、

である。

一面的な観念論、

一面的な実在論(経験論、感覚論、唯物論)、

の、二つの試みは同時に始まる。実在論的発展系列の創始者は、ジョン・ロックである。

経験論が精神的なものを物質的なものの下位におき、精神的なものを物質化しようとする努力によって導かれていたとすれば、観念論は逆に、物質的な物を精神化すること、すなわち物質的な物がその下に包摂されるように精神の概念を理解することに努める。(中略)後者のそれは(ライプニッツやバークレでは)…すなわち精神(心)と表象(観念)のみが存在するという命題である。……観念論の立場は精神的な存在、自我を実体とする。

実在論と観念論を、カントは、次のように統一する。

自我は実践的な自我としては自由であり自律的であって、自分自身の無制約的な立法者であるが、理論的な自我としては受容的であり経験の世界によって制約されている。しかしそれはまた理論的な自我としてもそれ自身に二つの側面をもっている。なぜなら、一方、我々のあらゆる認識の素材が経験に由来し、経験こそわれわれの認識の唯一の領域であるかぎりにおいて、経験論が正しいとすれば、他方、経験するためには、経験によっては与えられずア・プリオリにわれわれの悟性のうちにふくまれている概念が必要であるから、合理主義が認識のア・プリオリな要因および素地を強調するのは正しいのである、

と。なお、カントの『純粋理性批判』については触れたhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473549212.html

カントのアンチテーゼであり、フィヒテがカントの直接の帰結である。

カントはなお二元論的であって、それによれば、自我は一方では理論的自我として外界に隷属し、他方では実践的自我として外界の主人である。言いかえれば、自我は客観に対してあるいは受容的にあるいは自発的にふるまう。フィヒテは、実践理性の優位を強調することによってこの二元論をとりのぞいた。すなわち、フィヒテは、理性をひたすら実践的なもの、意志、自発性と考え、客観にたいする理性の理論的、受容的な態度をさえ、ただ活動の減少、理性そのものによって定立された正言と考えるのである。

フィヒテから出て、フィヒテと対立したシェリングの根本欠陥は、

絶対者を抽象的に客観的なものと理解したことであった。絶対者はまったくの無差別、同一性であった。このような無差別からは、第一に、規定されたもの、実在的なものへ移っていくことは不可能で、したがってシェリングは後になると絶対者と実在する世界との二元論におちいった。第二に、このような無差別のうちでは自然的なものにたいする精神的なものの優位性がなくなり、両者は同等のものとされて、観念的なものと実在的なものとのまったく客観的な無差別こそ両者よりも高次のもの、したがって観念的なものより高次のものとして定立されていた。このような一面性を反省するところからヘーゲル哲学は現れたのである。

で、ヘーゲルは、その方法によってその先行者と根本的にちがっている。

絶対者はヘーゲルによれば、存在ではなく発展である。すなわち、それはさまざまな区別と対立とを定立するが、これらは独立であったり絶対者に対立したりするものではなく、個別的なもの各々もその全体も絶対者の自己発展の内部にある諸契機にすぎない。したがって絶対者が自分自身のうちに、区別―といっても絶対者内の諸契機をなしているにすぎないような区別―へ進む原理をもっていることが示されなければならない。この区別は、おのれが絶対者へ付加するのではなく、絶対者が自ら定立するのでなければならず、そしてそれはふたたび全体のうちへ消失して、絶対者の単なる契機であることを示さなければならない。

つまり、ヘーゲルの方法は、

各々の概念はそれに固有な対立、固有な否定を自分自身のうちにもっている。それは一面的であり、その対立をなしている第二の概念へ進んでいくが、この第二の概念もそれだけでは第一の概念と同様に一面的である。かくしてこれらが第三の概念の契機にすぎないこと、そして第三の概念ははじめの二つの概念のより高い統一であり、両者の統一へと媒介するより高い形態のうちで両者を自分に含んでいることがわかる。この新しい概念が定立されると、それはふたたび一面的な契機であることがわかり、この一面的なものは否定へ、そしてそれとともにより高い統一へ進んでいく。概念のこの自己否定が、ヘーゲルによれば、すべての区別と対立の発生である。

だから、ヘーゲルの方法とは、

絶対的なものは単純なものではなく、最初の普遍者のこのような自己否定によって生まれる諸契機の体系である。この諸概念の体系もまたそれ自身抽象的なものであって、たんなる概念的な(観念的な)存在の否定、実在性、(自然における)諸区別の独立的実在へと進んでいく。しかしこれもまた同様に一面的であって、全体ではなく一契機にすぎない。このようにして独立的に存在する実在もふたたび自己を止揚して、自己意識、思考する精神のうちで概念の普遍性へ復帰する。思考する精神は、そのうちに概念的存在と観念的存在とを包括して、それらを普遍と特殊のより高い観念的統一としている。このような概念の内在的な自己運動、

なのである。

本書は、ヘーゲルまでしか語られない。しかしヘーゲルの、この観念の巨像はある意味、逆立ちしている。たとえば、

キリスト教がはじめて神と世界とを積極的に融和させる。それはキリストという人格のうちに、神的なものと人間的なものとの統一の実現である神人を見るからであり、神を、自分自身が外化(人間化)しそしてこの外化から永遠に自分のうちへ帰る理念として、すなわち三位一体の神としてとらえるからである。

というヘーゲルの絶対精神の考えは、やがて、フォイエルバッハによって、こう転倒されることになる。

神的本質(存在者)とは人間的本質以外の何物でもない。またはいっそうよくいえば、神的本質(存在者)とは人間の本質が個々の人間―すなわち現実的肉体的な人間―の制限から引き離されて対象化されたものである。いいかえれば神的本質(存在者)とは、人間の本質が個人から区別されて他の独自の本質(存在者)として直観され尊敬されたものである。

ここから、マルクスの唯物史観が始まるが、同じく人間へと取り戻そうとしたキルケゴールは、

人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいはその関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。

と書いた。それが実存主義へとつながっていく。

ヘーゲルは、逆立ちした観念の巨像、総合体系である。いわば、哲学のギリシャ以来の到達点であると同時に、ある意味でコペルニクス的な転換点でもあることがよくわかるのである。

西洋哲学史(下巻).jpg


参考文献;
A・シュヴェークラー『西洋哲学史』(岩波文庫)
フォイエルバッハ『キリスト教の本質』(岩波文庫)
キルケゴール『死にいたる病』(中央公論社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:33| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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