2020年06月05日

万物一体の仁


宮城公子『大塩平八郎』を読む。

大塩平八郎.jpg


何度目か、ふと気になって、また本書を開いた。大塩中斎に寄り添い、その思想の流れに則って、中斎の一生を追う。本書は、中斎の思想、陽明学というより、中斎自身が孔孟学と呼んだ、その思想の決算書のような性格を持つ。

大塩平八郎。諱は後素、字は子起。号は中斎。享年45。

大塩をさして、友人頼山陽は、

小陽明、

と渾名したという。著者は、「序」で、こう書く。

「大塩にあっても陽明学はまさしく『述べて作らず、信じて古を好む』ものとしてあった。大阪東町奉行所与力として民政にあたる中で、洗心洞での門弟への講義の中で、あるいは伝え聞く各地からの民情不穏の情況で、そして打ち続く『天保飢饉』のさなかにあって、大塩は常に陽明学を通して聖人や賢者の言葉を追体験しようとした。しかも日常の言動から、心の奥底の隠微な動きにおいてである。大塩の本領は、この追体験の厳しさと、そこにあらわれる強烈な個性にこそあろう。そして儒者なら誰も知る言葉より反乱を導き出したその一点において、大塩は全く新しい創造をなしとげたのであり、長い儒学史上、たぐい稀なものものとして輝く」

と。しかし、

「陽明学そのものは為政者の治世のための学問であり、けっして『反乱の学問』ではない」

そのことを、大塩は百も承知していた。しかし、大塩の「万物一体の仁」の思想によれば、

「草木瓦石も我心中の物だから、字義通りの宇宙の存在すべてを、自分のこととしてひきうける無限責任の前に立つ。この無限責任を背負い、『故に大人は斃れて後已む』と大塩は命がけの『功夫』(実践修養)を自分に課した。こんな命がけの功夫によりはじめて『心太虚に帰し』、太虚と合一しうる。その時、人は『四海を包括し、宇宙を包含して、捕捉すべからざるものなり。大を語れば天下能く載する莫き』(洗心洞箚記)ものとなる。」

自ら、こう書いている。

「眼を開き天地を俯瞰して以て之を観れば、則ち壌石は即ち吾が肉骨なり。草木は即ち吾が毛髪なり。雨水川流は即ち吾が膏血精液なり。雲煙風籟は即ち吾が呼吸吹嘘なり。日月星辰の光は即ち吾が両眼の光なり。春夏秋冬の運は即ち吾が五常の運なり。而て太虚は即ち吾が心の蘊なり。嗚呼人七尺の躯にして而も天地と斉しきこと乃ち此の如し。三才の称豈徒然ならんや」

と(洗心洞箚記)。確かに、大塩自身は、

「民の苦しみは我の苦しみ」

でありそれを見過ごすことはできない。しかし、あくまで儒者は、それを治世に生かすべく、そういう為政者を動かすしかない。だから、友人平松楽斎に、

「君が今、『己を知る』明君に会わず、このうえ働こうとする」

のは、孟子のいう、

「憑婦臂を攮(かかげ)て下車」、

の類と諫められ、いったんは、自ら何かしようとすることを、思いとどまった大塩であったが、幕閣の、とりわけ老中水野越中守、大阪東町奉行跡部山城守兄弟による、

「大阪市中の在米確保で厳しい他所積制限令を出し、日々の飯米を買い出す細民を罰しつつ、他方で幕命を受け江戸廻米に奔走する大坂町奉行の飢饉対策」

には怒りを抑えきれなくなる。「大学卒章」の、

「小人をして国家を為(おさ)めしむれば、菑害(さいがい)並び至たる。善者有りと雖も、亦之を如何ともする無し」

という文言が大塩の目の前に現実として見えてきた。

「『民を視ること傷める如し』。これは大塩が幾度となく反芻した言葉であるが、今大塩の目前に飢えに倒れ、死のうとしている民衆が横たわる。『万物一体の仁』とは井戸に落ちかかる子をみれば、誰しもはっとして、とるものもとりあえず救おうとする『惻隠の情』が、その基底にあった。民の苦痛は我の苦痛である。民の飢え、民の苦しみは我の飢え、我の苦しみ。今、我が手が痛み、我が足が萎える。大塩は民衆と一体化し、町奉行並びに諸役人に怒りを爆発させる。」

大塩の思想的転換を、こう捉える。

「大塩が何かを決意した時、それは打ち続く天変地異と、同じように猖獗をきわめる百姓一揆を前に『大学卒章』の中に小人が権柄を握る幕藩制支配の危機を読み取り、百姓一揆や打ちこわしの鎮圧を決意していたのかもしれない。大塩の『万物一体の仁』の思想からすれば、一揆に立ち上がり、為政者に手向かう民もまた、わが心中の悪なのであり、己の責任において、それは鎮圧されねばならなかったから。だが、この『万物一体の仁』からすれば、同じく飢えに苦しむ民衆もわが心中の問題であり、己の責任において救わねばならない。『小人をして国家を為(おさ)めしむれば、菑害並び至たる』という『大学卒章』は『万物一体の仁』により、飢えに苦しむ民衆と完全に一体化することによって、はじめて現実の幕藩制支配者への批判の思想となりえた」

と。而して、蜂起の檄文は言う。

「四海こんきういたし候ハゝ天禄ながくたゝん、小人に国家をおさめしめば菑害并至と、昔の聖人深く天下後世、人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ、東照神君ニも、鰥寡孤独ニおひて尤あはれみを加ふへくハ是仁政之基と被仰置候、然ルに茲二百四五十年太平之間ニ、追々上たる人驕奢とておこりを極、太切之政事ニ携候諸役人とも、賄賂を公ニ授受とて贈貰いたし、奥向女中之因縁を以、道徳仁義をもなき拙き身分ニて、立身重き役ニ経上り、一人一家を肥し候工夫而已ニ智術を運し、其領分知行所之民百姓共へ過分之用金申付、是迄年貢諸役の甚しき苦む上江、右の通躰之儀を申渡、追々入用かさみ候ゆへ、四海の困窮と相成候付、人々上を怨さるものなき様ニ成行候得共、江戸表より諸国一同右之風儀ニ落入、天子ハ足利家已来別而御隠居御同様、賞罰之柄を御失ひニ付、下民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方なき様ニ乱候付、人々之怨気天ニ通シ、年々地震火災、山も崩、水も溢るより外、色々様々の天災流行、終ニ五穀飢饉ニ相成候、是皆天より深く御誡之有かたき御告ニ候へとも、一向上たる人々心も付ず、猶小人奸者之輩、太切之政を執行、只下を悩し金米を取たてる手段斗ニ打懸り、実以小前百姓共のなんきを、吾等如きもの、草の陰より常々察し悲候得とも、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなけれバ、徒ニ蟄居いたし候処、此節米価弥高直ニ相成、大坂之奉行并諸役人とも、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸へ廻米をいたし、天子御在所之京都へハ廻米之世話も不致而已ならす、五升一斗位之米を買に下り候もの共を召捕抔いたし、云々」

これを評して、

「大塩は檄文起草の段階では、すでに死を決していたと思われる。自身が死を決することなく、どうして他人に死を迫りえよう。その意味では、二千字に及ぶ挙兵の檄文は大塩の思想的遺書である」

と。しかしその思想に立ち開かったのが、大塩の最愛の弟子、宇津木靖である。

宇津木靖(通称矩之允)、字は共甫、静区(せいおう/せいく)。彦根藩士。享年29。

「図らざりき、先生此言を出すや、夫れ災を救い民を恤ふは官自ら其の人あり、況や豪戸を屠って之を済ふ、是れその民を救ふ所以は、即ち民を災する所以なり。其れ乱民と為らざる者幾んど希なり。苟も余の言にして聴かれずんば、則ち師弟の義永く絶たん。安んぞ乱民の為に従はんや」

という宇津木の諫言は正鵠を射ていた。

「救民は町奉行が主体となってやるべきである。そのために富豪を誅伐したならば、民を救おうとしてかえって兵火で民を災し、挙句百姓一揆のごとく秩序を乱すことになる」

と。

「宇津木の理解した大塩中斎の思想からは、民衆によびかける挙兵はあろうはずがなかったし、それが大塩の思想の本質だった。宇津木の諫言は民衆によびかける挙兵にあらわになった大塩の『万物一体の仁』の思想の破綻を正確についている」

のである。

「大塩は蓄電した河合郷左衛門をそのまま見逃したし、密訴することになる吉見九郎右衛門が病気を理由に挙兵参加への返答を渋っても『心緩々保養専一』にするよう、挙兵のさいはそのまま立ち退けと許した」

にもかかわらず、ひとり、宇津木のみは惨殺せしめた。これについて、著者は、

「私は大塩が、宇津木の言葉を認め彼を生かしたならば、大塩の挙兵の意図が今ここですべて崩壊する。大塩は宇津木を殺さねば前へ進めなかったのだと考えたい」

とする。宇津木の指摘するように、儒者として、蜂起はその理論の破綻そのものである。治者の学問を、治者を介さず自ら実践できるなら、自らを容れる君主を求めて、孔子も、孟子もさまよい続ける筈はないのだから。

著者はこうまとめる。

「大塩の悲劇は『万物皆我に備わる』といい、また『仁者は天地万物を以って一体と為す』といって、民衆はもとより草・木・瓦・石にいたるまでの天地万物をすべて心の中のこととしてひきうけ、それをつき離し、客観化することはもとより、無関心でさえありえなかったことにある。大塩は世界存在にたいする無限責任を背負って生き、そして死んだといえよう」

と。しかし、大塩の思想の全体像を、その形成から完成まで見届けた著者にしても、

「大塩の生涯の思索と実践の中に、大塩が挙兵に追いつめられていく過程をさぐり、その『所業の終る処』を見届けた今となっても、やはり、私には大塩が生と死を分つ最後の深淵をどう飛び越えたかに、答えられない」

と書く。その、儒者であることをやめ、反乱者として立つ、その深い淵は、大きく広いほど、目の前の、飢饉と困窮の人々への、大塩のやむにやまれぬ思いの深さを感じる。

大塩逮捕のために大阪城代土井大炊頭の下で働いた鷹見泉石は、

「京、大津辺、下々而て、大塩様の様に迄世のためを思召候儀、難有と申者、八分通りの由」

と日記に書き残した。以て瞑すべしであろうか。

なお、矩之允と平八郎の思想的対立については、「架空問答」として、項を改める。

参考文献;
宮城公子『大塩平八郎』(ぺりかん社)
吉田公平訳注『洗心洞箚記』(タチバナ教養文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:26| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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