「茶飯」は、
米の調理法の一種、
だが、
葉茶の煎じ汁で炊いた飯、塩で味を付ける、
ものと、
醤油と酒とを混ぜて炊いた飯、
の二種がある(広辞苑)。前者は、
研いだ米に、煎茶やほうじ茶(茶葉ではなく、淹れた茶を水の替わりに用いる)を加えて炊き上げたもの。または、白飯が炊き上がったところで、塩と抹茶を混ぜたもの、
で、奈良の郷土料理、
「茶飯」は、
米の調理法の一種、
だが、
葉茶の煎じ汁で炊いた飯、塩で味を付ける、
ものと、
醤油と酒とを混ぜて炊いた飯、
の二種がある(広辞苑)。前者は、
研いだ米に、煎茶やほうじ茶(茶葉ではなく、淹れた茶を水の替わりに用いる)を加えて炊き上げたもの。または、白飯が炊き上がったところで、塩と抹茶を混ぜたもの、
で、奈良の郷土料理、
奈良茶飯、
が有名である。奈良茶飯は、
茶を煎じた湯に塩を少し加えて炊いた飯…に大豆・小豆・栗などを加えた、
とある(たべもの語源辞典)。後者は、
研いだ米に、醤油と出汁などを加えて炊き上げたもの。東京では主におでん屋で供され、おでん用の茶飯の素も市販されている、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E9%A3%AF)、きがらちゃ(黄枯茶)色をしているので、
きがらちゃめし(黄枯茶飯/黄唐茶飯)、
といい(たべもの語源辞典)、また、
さくらめし(桜飯)、
味付飯、
醤油飯、
ともいう(広辞苑)。遠州地方(浜松市周辺)では、
さくらご飯、
(桜飯(タコ飯) https://cookpad.com/recipe/1828813より)
と呼ばれている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E9%A3%AF)、とある。なお、これに、牛蒡や蒟蒻を炊き込んだ、
加薬飯(かやくめし)、
は、大阪で多くつくられた(日本食生活史)、とある。「加薬飯」は、
かやくごはん、
ともいうが、
五目飯、
ともいう。
要は、「茶飯」には、
茶を用いた茶飯、
と、
炊きあがりが茶色である茶飯、
とがあり(仝上)、たべもの語源辞典によると、茶飯には、
鹽を加えて茶の煎じ汁で炊いたもの、
鹽と酒を入れて炊いた飯に粉にした煎茶を混ぜるもの、
茶の入らない醤油味の飯、
普通の飯に熱い吸地(煮出汁と醤油と塩)を掛けたもの、
飯に吸地をかけ、晩茶を軽く振り込んだもの、
等々作り方は各種あるが、共通項は、
黄枯茶(きがらちゃ)色をした飯、
ということらしい。
奈良茶飯は、
少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだもので、しじみの味噌汁が付くこともある。
元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされる。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したものだった、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E8%8C%B6%E9%A3%AF)。江戸時代初期の『料理物語』には、
茶を袋に入れて小豆とともに煎じ、更に大豆と米を炒った物を混ぜて山椒や塩で味付けして炊いた飯を指すと記され、更に人によってはササゲ・クワイ・焼栗なども混ぜたという。現在も香川県の郷土料理となっている茶米飯は、米と大豆を炒ってものを少々の塩を入れた番茶で炊いて作られており、『料理物語』に記された奈良茶飯と同系統の料理であるとみられる、
とある(仝上)。江戸時代前期(明暦の大火以降)に、江戸市中に現れた浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まった、と言われている(仝上)。これは、
奈良茶飯に、豆腐汁、煮染、煮豆を添えた、
もの(たべもの語源辞典)、あるいは、
奈良茶飯に汁と菜をつけて供され、菜には豆腐のあんかけがよく出された、
ともあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E8%8C%B6%E9%A3%AF)、江戸後期の『守貞漫稿』には、
明暦の大火(1657年)のあと、金竜山(守貞は金竜山を浅草寺ではなく待乳山聖天としているが両説あり)の門前の茶屋が茶飯に豆腐汁、煮しめ、煮豆などを添えたものを奈良茶と称して出したのが最初で、金竜山の奈良茶を食べに行こうと江戸中から人が集まるほど人気となり、『西鶴置土産』(1693年)にも登場した、
とある(仝上)。現在の定食の原形と言える(仝上)。『西鶴置土産』には、
近き頃金竜山の茶屋に、一人五分宛奈良茶を仕出しけるに、器物の奇麗さ色々調へ、さりとは末々のものの勝手の好き事となり、中々上方に斯る自由なかりき、
とある(日本食生活史)。天和(1681~84)の頃には、
浅草並木町にもでき、いずれも料理茶屋の初めとなった。それから諸所にできたが、川崎大師前の亀屋・万年堂などが有名、
とあり(仝上)、さらに、
夜十時過ぎに茶飯と餡掛豆腐を売る茶飯売りが出た、
ともあり(たべもの語源辞典)、これは京阪には見られなかった。これにより、奈良茶飯は、畿内よりもむしろ江戸の食として広まっていった、とみられる(仝上)。文化2年(1805)の『茶漬原御膳合戦』には、
茶漬見世は、……大森の里人の思い付きで、上白米を飯にたき、茶もいいものを選んで、しがらきや葦久保などに縁のある海道茶漬の見世を開いた。最初は一軒だったのが次第に増えて二十何軒かになった。そのうちにおちゃだけではなく、奈良漬、座禅豆、梅干しなどを付けて食わせるようになった、
とある(日本食生活史)。別系統の茶飯屋かもしれないが、一膳飯屋であったことがわかる。
今日、
おでん茶飯、
とおでんに茶飯がつきものになった(たべもの語源辞典)が、これは、
桜飯、
醤油味で具のない炊き込みご飯。研いだ米に醤油、塩、酒、味醂、出汁などを加え炊き上げたもの、
である。これが、
黄枯(きがら)茶飯、
の代名詞である。
なお、
「めし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471966862.html)、
「粥」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474375881.html)、
については、触れた。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95